創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171024

眠る

 よく眠る。台風の日はあまり眠ることが出来ずその疲労が溜まっていた。その間に見た夢は多幸感があった。夢と記憶はどうやら違いがあるようだ。ただ思い出しているのか、描いているのかそこに違いが存在しているようである。どちらも身体は反応を示す。それは気持ちよさや嫌悪感として現れる。その反応の中へと潜り込むことである。経路はどちらでも構わない。その反応の先にある、隙間。空白。一瞬、その瞬間すらない瞬間に身を寄せるのである。なんどでもすり替える。認知をすり替えるのである。その瞬間に彼の認知は死に、それと同時にまた新たな認知が生まれるのである。端と端を行ったり来たりしているのだが、いつの日も飛び交っているのだ。端から端へと。これは同時に存在しているのだと思っていたのだが、どちらからが死にどちらかが生きている。すなわち同時に存在しているわけではないのだが、いまこの瞬間にも端と端を移動し続ける。ある場所では男であり、ある場所では女である。それは振る舞いとしてではなく、男であり女であるし、ある場所では親であり、ある場所では子供なのである。どちらも生存確認は取れているのか。男が叫ぶ。早急に、早急に。男はどちらの確認も直ちに進めるよう部下に促すが、その生命体、男であり女であるその生命体は、一方でお男であり、他方で女である。一方で女であるが、他方で男である。部下に指示を出すこの男はこの男であり女である生命体を同時に発見せよと叫び続けるのだが、男は発狂を繰り返すのみである。なぜ、現れない。なぜ、現れない。一方でしかない。一方を現せ。一方をつまみ出せ。この男は男であり女であるこの生命体の女である部分を一方と断定。惚れていたのであるし、実際に寝ていたのだ。その時間を共にし、朝になると消えていた一方であり他方であるこの女を捉えることに必死なのであるが、一方であり他方である男を否定し続ければ否定し続けるほど表出するのはこの一方であり他方であるはずの男なのである。すなわち、この男こそが一方であり他方であるこの男を表出させているに過ぎないのだが、そんなことには見向きもしない。ただ一方であり他方である女を捕まえることに躍起になっているこの状況。

 

レコード

 消えかかる火を再び灯すことに成功したのはある書物であり、遺言であった。これはかつて他国へと亡命を余儀なくされた男の記した、刻みこんだ書物、生命の定着といってよかったのだが、その書物がこれまで発見されることはなかったのだ。探し求めていたわけでもなかったし、それはある日突然そっと机の上に置かれている。運んできた人物を捜索する必要もない。我々は風を追い求めることもしないし、雨がどこからやってきたのかと尋問することもしない。それにもかかわらず人間に執着、人間と、雨風になにか大差などあるのだろうか。しかしその自然全般になり、人間であるその人格すらをなり下げる必要もない。あくまで自然は自然であり、人間は人間である。崇拝するのではなく、自然自体になり、人間自体になることだ。そして動物、その皮膚を覆う、細胞と細胞、その粒子を顕微鏡で覗き込む。そこには観客の笑い声が鮮明に録音されているのだが、観客としてそこにいたはずのその女はもうすでに音楽の一部としてレコードに記録されているのだ。音楽をする権利を求めてはいけない。今この時点で指が鳴らすこの音、喉を震わす振動、心臓のリズム全てが音楽を示しており、許可を取る必要も、習う必要もなかった。もうすでにここにある音楽を聞き入れることであったし、それこそが聞く耳を持つという習慣のようなものであった。その皿の音、グラスが交わる音、見つめ合うその男女の鼓動さえもが音楽へと侵入、それはすべてレコードに刻まれている。そこにあった生命を感じさせるこの音楽に興奮をしていた彼は、そっと音楽の中にある、その生命に耳を澄ませた。現代の音楽はそういった生命の漂いを雑音として認識し、ノイズとしてかき消されている。これこそが生命の隠蔽である。そうやって人類はそこにあったはずの生命の鼓動すらも機械により、何者かの手によってかき消されていくのである。その漂いを感じるか。そこにある鼓動を知っているか。その興奮に耳を傾けることができるか。それは俺だ。俺こそが興奮そのものである。そこで生きていた張本人だ。俺たちだ。俺たちの鼓動。音符、音符、音符。クレッシェンドの多用。もっともっともっと強く、強く。デクレッシェンド。

 

音楽

 最近、ここで書くときには音楽を聴くことが多い。サム・アミドンやビル・エヴァンス、聞いてはいないのだがなぜか、かもめ合唱団の歌声も頭から離れない。ここ一週間はドゥルーズガタリの本を読んでいる。パラ読みに近いが、文章が鮮明に浮かび上がる。その表出した文章を書き残す。とにかく文字を書くことである。写経。それで運動は保たれるのである。とにかく日々書くことであり、描くことである。昔やっていたスポーツと変わらない。とにかく訓練を刻み続けるのである。体力はついたか、身体的な体力ではなく、それは内面へ、内面へと続く。精神的な体力なのだろう。そこに強さはないが、弱いわけでもない。ただ静かに揺れながら、崩されながらも、それでも延々と飛び続けるその鳥自体。風に煽られようが、何か攻撃を受けようが、反撃することはない。あくまでも相手は内面にあるのであり、外的要素はそれを引き出しているに過ぎなかった。彼は、自信や自尊心というもについて考える時間が長かったのだが、結局は量であるし、お金にならない、生活できない、そんなんじゃ生きていけないという声を鵜呑みにしてやっていないだけなのであった。今更遅い。今更遅いの連続が今更遅いなのであり、それでもただ巣に潜り込み、永遠と続けるその死ぬまで続く、そして死してなお生きるその生命体。まだ生を受けていないその死者たちに彼は語り続けていたのだ。まったく理解されないと嘆く必要すらもない。死者たちは気づいているからである。この漂いを嗅ぎつけているし、彼らこそが嗅覚のプロフェッショナルであることは明白であったのだ。依頼されるな、自ら依頼し続けろ。永遠に繰り返せ。死者たちを興奮させる生命を生み出すのである。

 

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今日は通院。

その後、絵の続き。