創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171025

 雨が降る。少し肌寒くまたカーディガンなどを羽織る日々が始まりそう。服装がモコモコとしてくる季節が好きだ。暖かみのある服装というのが好きなのかもしれない。何か生きるために、寒さから身をも守るために必要であるからこそ身にまとっているようなそんな装いが何か心を動かすのかもしれない。絵が描きあがる。最初に描いていた絵とは全く違った絵になった。一度見えてくるとその形のようなものを維持したくなるがそれすらも一度捨ててまた新しい場所へといきたくなる。キャンパスに描くときと、紙に描くときでは何か出力が違うようにも感じる。絵について書いてみようと彼は考えているようだった。思えば絵を描くことは好きだったがそれ自体を学びたいとも思わなかったし、上手くなりたいとも思っていなかった。それは小学生の頃だ。ただ好きだから描いていたし、紙に現れる世界、空間そのものに入り浸っていた。何か自分が保たれるような感覚であり、そこが居場所であるようにも感じていたのだ。そして何よりもそれはコミュニケーションを図るための手助けとなっていた。もともと言葉だけでの関わりには無理があったのかもしれない。うまく口にできないことが多く、感情のような衝動性のようなそういったもので会話をしていたのだと思う。これはもう10年以上も前の話であるのだが、結局子供だった彼をどう捉え直すかだった。そして今だに彼は子供であるし、子供の延長線上で存在し、いつまでも子供としての立ち振る舞いを続けるのだ。こうやって書くことまた何か改めて加筆する。何度でも加筆する。その連続が毎日である。消されることはない。ただ上積みされていく。忘れることはある。ただ忘れていく。彼は文章を書いているのかと言われると疑問に感じてしまう。何を書いているのか。日々の動きであり、行動である。毎日の運動。機械的である。機械的な心臓であり、口、肺の出入りによる関連性を見出している。あまり入り込まずに書いてみる。もう少し、入り込まず動物にならず書く。それは音楽であるのか。論理的破綻は文章ではないとの決めつけ。しかし、詩はどうか、音楽はどうか。なぜか彼らの詩と音楽は彼の身体に染み渡っていくのだ。頭に入ることと、身体に染み込んで来ることは違いがある。身体は反応しているか。身体が聞いているか。文字を書き連ねることの効果効能、医術的見解はこうである。身体に反応あるのか、効果効能はあるのか。

 

何者かの誘発

 彼は何者かによって誘発され言葉を生み出していたのだが、何よりも人と会うことを拒んでいた。それは苦しみになりうるし、彼自身には向かない行為だと考えたためだった。しかし、その苦しみは必要な苦しみでもあると今書き換えているのは彼自身である。生み出すための苦しみとして、創造活動の一貫として人からの誘発を受けようと考えている。これは一つの変化であり捉え直しが進んだ結果であり、答えではなかった。何者かと出会うことは、その何者かのために何かをしたい、してあげたいという欲求ではなかった。ただ、その出会いにより自らがまた新たな概念を生み出すきっかけで、すなわち自己満足、自分をひたすらに満たしたいという欲求に過ぎなかった。これは彼が本来持ち合わせていた性質のようなものであり、あくまでも他人が喜んでいることを喜んでいるのではなく、喜ばした自分自身の振る舞い、その行動を賞賛しているのである。自分のことしか考えていない傲慢さでもあるのだが、果たしてその彼自身を否定することはできるのだろうか。彼はそれ自体がすでに愛されていたのだ。その立ち振る舞い、自らを満たす行為が、多くの人を癒し、喜ばす一因になることを知っていた。これは覚えていたと言って良い。彼は創造することのみに喜びを覚える。自らが生み出し続けることにしか考えが及ばないのである。そうでありながら、他者、他人に対して必要以上に気を使い疲れ果ててしまうことを恐れているのだ。しかしそれも折り込み済みである。結局、出会い続けることしか出来ずそしてまた書斎へと帰っていくのだ。その連続である。出たり入ったり。出入りを繰り返す。入り口は一つだったか、出口は一つか。多様な出入り口が存在していたが、蓋を開けてみればそれは一つの出入り口として存在していた。口であり肛門。その経路は無限。毎度違うその空間を抜けていく。同じではない。高速で移動。留まることをしない。彼は試し続けた。投下した。それは反応を生み出すためであった。他人ではない。自らの反応を生み出すための行動、行為、その連続。書斎に入り込んだ。そこは家であり、巣、すなわち布団。潜り込む書斎。その夢で彼は八つ裂きにされた。それは身に覚えのある感触で身体は穴だらけであり、一命をとりとめているとは言えなかった。この状況をなぜ彼は記憶していたのだろうか。彼は犯罪を犯したわけではなかった。その勢力に、支配に立ち向かった結果の殺害だった。このことをなぜはっきりと覚えているのだろうか。彼は疑問を持つことはない。ただそれは当たり前の行為であった。迫害を受け続けたその時代を生きた勇敢な芸術家であった。誰からも知られることはなかったのだ。死者達の中で彼は知れ渡っていたのだ。ただ生あるうちに理解されなかっただけのことだ。「技術の進歩はいつも遅すぎる」と映写室で事故にあい、その火事で視力を失った男は言った。男は決して悔いていなかった。むしろ「以前よりよく視えるようになった」とすら言い残している。これは視力云々ではなく、男に見えていたのは人からの生まれたその漂いであった。見透かしていたわけではない。浮かび上がってきたその内面をただ感じていただけである。このことから視力で受け取る情報が一部分でしかないと知りながらも、その他を受け入れようとはしない。数字、正解、一寸の狂いもないその状態こそ現実。それなのになぜ彼は彼よりも背丈の低い男に出会った時、男のことを〈大きい〉と感じたのであろか。次第に男は元どおりに戻り体へと収まっていく。それを彼は知覚する。認識している。それは視ていると言えるか。感じ取っていると言ってもいい。これはもうひとつの空間であるし、もう一つの現実と言ってもいい。どちらも存在し、ただ端と端を、飛び越えているのである。

 

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また雨が帰ってきた。

何か人に出会ってく予感です。

 

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 溝井孝司(Koji Mizoi)

ここでは「詩的な日記小説」を書いてます。
文筆家、画家、歌い手、織り手、湧き水です。

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