創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171026

関係性

 彼は今関係性について書き始めている。それは家の中で起こる、家庭の中で起こる関係性についての文面であったのだが、それは果たして真実であるのか。あくまで彼にとっては真実である。彼はそう信じてるし、そうであることを望んでいる。それは彼の妄想なのであろうか。どちらにせよ、彼の中に存在しており、ノンフィクションなどありえるのだろうか。もしノンフィクションが実在しているのであれば、彼はノンフィクションの中では存在することが出来ないであろう。彼はフィクションとノンフィクションを混同し始めているからであり、どちらか一方が欠ければそれは成り立たない、すなわち死を意味することになるのである。それでも受容されるべきはこの状態である。書くことはそれ自体を受容し、許可するのである。それが真実であり虚構である、作り上げられた実話であることを加味しながら彼は書き続けていることを忘れてはならない。それは大きな問題ではない、問題にする必要すらない。おかしなのはそのノンフィクションだけが存在していると思うその思考、消え去る分裂、答えを求めるその状態、何もかもを正確にとらえようとするその状態に恐怖、欠如が生まれる。ある女性は社会問題について問うた。「貧しい国の子供たち、戦争のある国、勉学を受けられない子供たち、そういうかわいそうな子供たちが山ほどいるのであり、恵まれた私たちはそういった貧しい国の手助けをしなくてはならない」これはある側面であれば事実であるが、ある側面で見れば盲目なのであり、私たちは恵まれた国であるかもしれないのだが、果たしてそれは事実であるのか。何を持って事実と言うことができるのか彼は困惑を始める。確かに4階建ての一軒家に住んでいた彼にとってその家は広すぎるものであったし、持て余すくらいのものであったし、そんな家を持てることを周囲は「大きな家に住めてすごい、羨ましい」といった目で見るのだが、これは幻覚に近いかもしれないが、彼は確かにそれを知覚し、その家がなくなるとなれば哀れみの目を感じずにはいられず、「かわいそう、かわいそう」と幻聴が漂うのである。彼は錯乱の渦にいたが、表情は無表情だった。その錯乱した状態を内面のみでただ処理し続けたが、その情報量はあまりに膨大だったのだ。一見恵まれていた彼が求めていたものは居場所であった。彼自身が存在しても良いと許可される居場所であった。彼の心から寂しさ、また孤独感というものは消えることなく、いつまでもいつまでも引きずりながら歩く。彼はそうしてまた自分自身を省みるのであるが、反省ではなかった。反省することはできないし、ただ省みていたのだ。

 

事実と虚構による真実

 書くことが真実を生み出すことなどありえるのだろうか。ただその事実と虚構の狭間であり、それ自体が真実であると解釈しているのだが、では書かれたその文体から読み取るその混乱を果たして真実であると、彼以外の存在が口にすることはできるのだろうか。彼は書くことで人を操作しようとしている。危険な存在であるのだがそれもまた虚構であるのかもしれない。書くことで何もかもを操作し、自らの都合の良いように書き立てるのである。信用するな、あの男を信用するな。信用してはならない。そうやって否定する、否定的に見ることがまた文字を生み出すのである。これは矛盾したことなのであろうか。生み出されるたびに何もかもを否定するのはまぎれもない彼自身である。書くことで生み出されたものへの共感それはすなわち、彼の文章に対する共感、作り上げた世界への共感であり、そこに登場する人物に対しての共感などありえるはずもないのだが、それでも彼は人を描き続けようと試みているのである。

 

木漏れ日

 重要なことは書くことである。文体が問題なのではない。書くという運動こそが重要なのであって、そこに描かれた虚構、その真実については覚えることも、記憶することも出来ないのだから致し方ない。彼に断定する社会が合うのだろうか。「私は〜である」その断定は彼を社会でどのようにたち振る舞わせるのだろうか。その断定的な社会で起こるのは内在する混乱の死であるように思えてならない。何度でも殺し、何度でも蘇る。ただそれだけのことかもしれない。断定を否定したところで、それもまた断定を否定するという断定であり、彼はその渦中に佇み続けることを選ぶのだ。それは文中においてか。彼がその錯乱の中で佇み続けることを可能にするのは文中であり、書いているその運動こそが、生命を維持し続ける装置に過ぎないのだが、そのことに気づいている者はいるのだろうか。彼は人探しを始める。その場で人を探すのである。迷い人、迷い人、徘徊。徘徊を始めたのは彼自身であったが、徘徊している彼をまた連れ出そうとする別の予感を感じてる。これは探していた人との出会いだったのかもしれない。予感は的中した。徘徊していた彼を連れて彼らは歩き出した。彼は無事に出会うことが出来たのだが、無事であったのはその出会ったという事象についてだけであり、彼らの状況は思わしくなかったのだ。風は強まり、高潮警報。暴風警報。警報に次ぐ警報。彼らを取り巻く環境、それはそのまま外に現れ、彼らは家に立てこもることを余儀なくされるのだが、まったくそれは彼らの望んだ通りの出来事であり「これでいい、これでいい」と喉を鳴し続けるのだ。音はしない。ただ髭をふるわすことでコミュニケーションを図る。意図はしない。これは偶然の産物である。偶然に身を任せること、その出会いこそが真実の出会いであり、それは偶然ではなく、いたって創造的な活動の表出なのである。「また来てくださいね」家の人間はそうやって彼らを送り出した。まだ暴風と高潮であったが、それでも望んで外に出ることを選び取った。これも偶然であったのかもしれないが、この状態を選び取ったと言っても良いのかもしれないし、その断定をし続ける姿勢に彼らは疑問を抱き続ける。彼らはよくよく顔を観察していたし、その表情から発せられる、死臭を事細かにかぎとり続ける。「死臭に集まるのはハイエナですかね」ふと横を見ると女がいた。女は死臭を漂わせる張本人でありながら死期が近いことを感じ取り、その発言。徒党を組むな。篭れ。内へと篭れ。大樹の下へ、その木漏れ日こそが重要。消えて無くなっていくのはその大樹から生まれるその木漏れ日だったのだ。

 

 

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今日は晴れ。

 

ゴミ捨てをした。

8時ごろ捨てに行ったのだが人が多くて苦手だった。

 

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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