溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20171028

 雨が降ってくる。昨年の今日も雨が降っていた。雨は喜んでいるのだが、彼は喜んでいるのだろうか。昨年の今日など存在しているのだろうか。昨年の今日は1年前だというが、そのただ日々は積み重なり、昨年の今日はただその積み上げられたその塔の中におり、そこから明確な昨年の今日を彼は見つけ出すことはできるのだろうか。手を動かすことだった。とにかく書くことで、何もかもが流れ出していく。溶けていくと言っても良い。この動作自体が重要である。これは脳への指令。連結した機能であり、仲介を通さず直接的に語りかける装置となりえる。このおかげで彼は呼吸をし、心臓を動かしているのであればそれは一種の救命装置のようなものであり、その装置を外すことはもうすでに出来ないほど体は衰弱していた。彼はただベッドの上でもその運動を続けていた。止める必要などなかったのだ。これは評価や賞を狙った行動とは違う、混じり気のない運動であった。彼はそのことを「私の活動は資本主義経済ではない」と言う。彼は自らを湧き水であるというのだ。ただ水は湧き続ける。そして彼の中から湧き水は溢れるのである。「それこそが私の経済。資本主義経済との対話」と語り続ける。彼は盲目であった。しかしよく物事を取られていたし、視力などでは捉えきれないほど豊かな眼を持っていたのだ。彼は何もかもを見透かしていたし、その上でなにも言わなかった。秘密主義者だったのではない。なにもいうことができなかったのだ。「私のことは生きている間に到底理解されないであろう」とその言葉だけを彼は何度でも口にするのである。彼はこの生を棒に振った。諦めていたわけではない、高を括ったわけでもない。ただ自らが湧き水であることを理解していたのだが、そのことを語ることもなかった。

 

運動

 とにかく運動を止めないことであった。そうでなくてはとめどなく流れてくるその思考に飲み込まれてしまうことを私たちは知っていたのだ。その洞窟に描かれた壁画から、その壁からその壁の奥にあるその壁に内部に侵入せよ。壁で取り囲まれたこの家こそが私たちの内部である。この壁こそが私たちを大いに現した創造物である。着目すべきはその壁に描かれる傷や汚れである。私たちの研究はその壁に表出したあらゆる出来事、事柄の研究。その刻まれた、その偶然に次ぐ偶然、その必然的な傷、シミ、汚れ。それらを歴史研究とし、絵画研究であると判断。これは芸術でもなければ、美術でもない。ただ壁の観察。そこに芸術性や、美術性など捉われる必要もなければ、そうなることで最も重要なその壁の傷、シミ、そして汚れは綺麗さっぱり流れ落ちてしまうのだろう。そうなってからではもう遅いのである。その傷にこそ私たちの記憶、願望、性欲が充満しており、漂う生命、幼児的な観点を失ってはならない。

 

研究

 男の研究対象は子供達である。男は子供、主に女の子を描くことにより、自らの欲動を満たす。その内面で起こりうる、幼児に対する要求、欲動、虐待を誰も知る由はないのだ。それを闇と言ってはならない。何でもかんでも光だ闇だと言葉にする安易さに男は怒り、そして悲しみ、また描く。男はただ正面を見た。タバコを吸いながら、じっとそのキャンバスを観察。そこに描かれた女の子の表情を見るたびに男はただ静かになる。これまでの要求、欲動、そして生み出された虐待すらも消し去るのである。これは男の中で内在、包まれているその状態。どちらもが内包されているのだ。そのことを消し去ろうとするのだからたまったものではない。その瞬間に男は死に、また生きる。ただその行き来についての観察。往来である。私たちは元きた場所へ戻り、また出ていくのである。それは必然からなる偶然なのであろうか。私たちはさもそういった特別な運命があるのではないかと自らを模索し始めるのだが、そのことによりまた一人、また一人と内包された存在が死に向かいながら、生き続けているのであるが、それでもこの運命についての記憶。そのことを誰に求める必要があるのだろうか。止めることはできないのである。求めることもまた止めることもできない欲望であり、私たちはただその行為自体を観察することしかしない。声もかけなければ、ヒントすら与えない。男はヒントと自ら感じ始めているのだが、それこそが統合失調症、分裂の始まりであり、私たちはただその状態をいつまでも観察。記載。カルテに書き記すのみであった。

 

破壊

 彼はただ何もかもを破壊し終わらせてしまいたかっただけなのである。こうやってまた1年、また1年と過ぎていくことを怯えていたし、またその1年があるのかさえ分からなかったし、それでも構わないとそう考えていた。彼が消し去りたいものはその何もかもが過去の遍歴であり、そしてまた自信喪失、自尊心の欠如により起こる。私たちはその彼の状態を観察するのみである。ただ書き記すことが仕事であり、それ以上の関与をする気も全く持ってない。人命救助など私たちの範囲ではないのだが、それでもこの記録を書き記し続けていることが彼にとってのなにかしら効果をもたらしているのだろうか。彼は単純に怯えていたのだ。これ以上進むことができないと怯えているに過ぎなかったのだ。彼は画材店に行き、お金を払い、その画材を買うことにすら怯え始めているのだ。そこには大きな決意と、何もかもを捨て去る覚悟までもが必要であり、そのことが彼をまた絶望へと向かわせるのである。何もかもが大きな問題に感じられるのである。そして、またそのひとつひとつがどこまでも遠い存在であるように感じらえる。お風呂、歯磨き、トイレといったものもその中に入り込む。布団から起き上がることすらも大きな苦労が待ち構えているのである。起き上がったその先にあるのは絶望的な光景であるのだ。そのことを彼は知っているし、全く持ってそのようにしか捉えることしかできないのである。また時間に追われるのである、仕事に追われるのである。彼は逃げ惑うが、その時間は終わることはない。刻一刻と壁に追いやられ、その高い壁にまた絶望。それでもまた手だけでも動かそうと試みる。ただその連続があるのみであり、終わりなどないこの連続の中でまた彼はまた生にしがみつくのだ。

 

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朝ギター弾いて歌う。

また1年経ちました。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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