創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171030

失声症

 またどうしてこうも口から出ることに否定的になり始めるのだろうか。彼は、自ら話すことに対して、その言動自体、すなわちその意味よりも何も、言葉を失い、失声症、何も語れないこの状況、言葉がどこか遠くへ、行き、そして戻り、その搾り出そうとする状況、静かな鼻歌。とにかく、もう陽は暮れている。暮れ始めているのだが、それに対して焦ることもない。焦ろうともしない。走り出したのは坊主頭の男の子だった。子供だった。太陽みたいな頭をした子供が、太陽に向かってこの寒い季節に緑色のポロシャツ、青い短パン。白い靴下に、ニューバランスのグレーのスニーカー。どこかで見たことがあるようなくりくりしたその目、五厘刈り青い頭。それが太陽に向かって走る太陽。ユニフォーム姿の少年。長い髪の毛をなびかせて、白い野球ユニホームに身を纏う。背中には黒いマジックで大きく名前が書かれているが、どうしても読み取ることができない。その少年は集団を追うように、また集団と合流。同じ白いユニフォームに身をまとったその集団に合流。走り続けていた。今は夕暮れだった。確かにいま、むき出しの指は冷え切っており、布団をかぶり、体全体を覆い尽くそうと彼はしていたが、走り出す少年たちはもうすでに夏のようで、夏の炎天下の中を、茶色い土の上で浮かび上がるのは白いユニフォームであり、その環境、状況がいかにも正常であると言った表情。脱水症状で病院に送られる者もいたが、それは大きな問題にはならない。なぜなら脱水症状になる本人の問題であり、倒れるものこそ恥であった。「甘ったれた存在である」そう見なされるのが普通の環境の中で、彼は一体なにが責任であるかを問い始めるのだが、「まったくなにもかもが自身の甘えである」と言った、強迫観念に苛まれ、これもまた事実、寛容でありたいと願うが、それを許さない。どこまでも自己責任である。そうやって自らを高みへと、高みへ連れて行く気である。本人にその気はない。彼はそんなことを考えたくもなかったが、その時間の流れが、彼をそちらへと追いやるのである。自信など必要ない。いらなかったのだ。自信を失うのはただ、その大きな、全体の中での不安であり、それは決して自らが生み出しているわけではないと言うことを叫ぶ。叫ぶ行為そのものが彼を湧き立たせる。彼は何もかもを語ることを断念。口にする言葉自体が何もかもが虚栄的であり、本来は虚弱な、何もない、何もかもを持ち合わせない、貧弱な肉体、精神。そういったものがまたもろくも崩れ去り、築き上げた、いや築いてもいない。その貧弱な何もかもを受け入れる度量すらないのである。彼は言葉に救われると言うが、その反面徹底して言葉に殺され続けている。言葉が彼を殺しているのではない。言葉を使うことで、彼が彼自身を殺そうとしている。そして殺しているのだ。ゴッドファーザーは言葉を何よりも重んじた。それは言葉こそが戦争であると理解してのことであった。言葉が戦争を生み出すことを知っていたし、身体はうずいていた。もう間も無くだった。もう間も無く、何もかもがひっくり返るのだから、そのことを予感してのことだったのかもしれない。彼は困惑した。今まさにこの瞬間に、そう感じてた。そしてまた過ぎ去ったのだ。その何もかもを留めておくことのできない、この肉体、精神、思考を否定。否定しながら奥底では肯定を求め続けている。ただ寂しいのだと言いなさい。ただ悲しいのだと言いなさい。これが何よりも救いだったのだ。以前、世間を騒がせた男は寂しがり屋であったのだ。しかし、騒ぎ立てたのは世間であり、男は騒がそうとしたわけではない。ただ男がその騒動を自ら作り上げたと言ってもよかった。それは自らも認めていた。自らが何もかもを作り上げていることを知っていたのだ。そうやって表出させているいまこの目の前の出来事を何もかもを味わいつくすことであったのだが、その勇気もないと、彼は男を見ながらまた嘆き始めるのである。

 

カンツォーネ

 ピアノとギターの音が混ざり合う。赤い声。赤い声がした。情熱的なのではない。美しいとも違う。貧弱な強さである。強力ではない。私はその声に流されるまま筆をとるのだが、文字はとめどなく流れてくる。何もかもが指をつたい生み出され続けて行く。この行為に意見のあるものはいるか。官僚的なのは女だった。こうやって区別、分ける。彼から出てくるのは価値を産まなかった。価値を生み出すほどの、才が彼にあったのだろうか。そうしてまた自らの内面を探る。向かう先はここしかないのである。どれだけ文句を言おうが、逃げ出そうとしようが、ここから逃げることはできないのである。私は、そのことをとうの昔から悟ってたにもかかわらず、何度でもそこから逃げ出そうと企てる。脱獄行為を繰り返すのである。私はまた力尽きた。目を開けばまた牢獄へと追いやられている。またここに戻ってきてしまった。そしてまたその牢獄を破壊、穴を開け、それが風穴となり、牢獄のその空間にあたらしい、しかし懐かしい風が吹き込むのである。足はしびれていた。血のめぐりを留めているのは自らであり、自らが何もかもの流れを留めていることに一躍かっているのだが、そのことが触れられることはないのであり、私はまたそうやって鬱血、鬱憤を晴らすように、八つ当たり、ただ暴れまわる。アスファルトは何もかもを妨げていると言うことだ。みっちゃんは木を植えなさいと言った。彼も木陰を作るべきだと何度も訴えてきた。そのことが身近な人間には伝わらないと考えていたが、もうすでにその先を生きていたあなたに伝わることが何よりも感動的な出会い、それこそが出会いであったのだ。この時間的制約、空間的制約を超えて出会うのは植物としての交尾。接触、奥のその細やかな細胞、ピンク色、その細胞という肉、肉塊を溶かすのは、土に生える木たち、その風を大いに感じるがいい。彼は言葉出てこないこの状況に焦っていたのだ。何もかも集めた言葉がこぼれ落ち、丸裸、丸焼き、そのまま食い尽くされ、跡形も残らず、ただその骨を湖に付着させることだけを望む。その骨の生命から、また空へ、また大地へと流れ落ちるのであり、それは栄養とも違ったものであり、巡り巡るその骨のカンツォーネ。骨たちは歌う。その歌を聞いていたか。耳をなぜ傾けなかったのだ。私はまた嘆くのである。

 

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なぜやらないのかと誰かを責めたところで何も始まらないのだ。

自らがやり続けるしかないのである。

 

向かう先は、行き着く先はいつも一緒なのだ。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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