創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171102

窓辺

 近くまで来た。窓辺に腰掛けてなんとなく外を眺めていると、近くまでやって来たのは一匹の猫だった。隣の家の屋根に乗りノタノタと歩いている。こちらを見てはなんの興味もなさそうな顔をする。しまいには太陽で温まったトタン屋根にお腹をぺったりとくつけて寝そべったり、その場でゴロゴロとし始める。猫は何もサービスをしようとか喜ばせようなんて考えていないのかもしれないが、十分にそのやる気のなさそうな表情から伝わる、だらけ感と時折見せる警戒心でこちらを楽しませてくれているのかもしれなかった。そうしているとピアノの演奏が聞こえてくる。近くにピアノ教室があるようで懐かしい「旅立ちの日に」などが流れて来ていた。かすかに聞こえるのはドラムの音であまり音は大きくない。ただ、ピアノの演奏に寄り添うようにそのリズムは耳へと伝わってくるのだ。せかせかとスーツ姿の女性がヒールを鳴らして通り過ぎていく。朝はどこかせかせかした空気が人から漂っているが、反面のんびりとゴミ捨てに向かうおあばさまもちらほらといる。そんなおばさまたちは近所の方と出会うと挨拶をしたと思ったらそのまま会話が始まる。これが井戸端会議というやつである。ちゃんちゃんこを来た二人組のおばさまは誰がああだこうだと、本当かどうかわからない話を繰り広げるのだが、それも全て近くの家には漏れ出していることは承知の上なのかもしれなかった。聞かれることは大した問題では無い。とにかくそこで語ることに、その時間に意味があるのだ。それは地域を形成するひとつの手法のようになっていた。

 

表面的な服から見聞きする

 彼は地域であったり、その物からとにかく人自体を観察していることを発見する。服であったり、選択する言葉であったり、書く文字、描かれる絵、何かその人の片鱗を見出すとそこからその人の思考、生い立ち、その記憶すらも語りかけるのである。何をするにしても結局ついて回るのは人であり、単純な人たらしでなのである。それにもかかわらず、その関係性をややこしくしているのは彼自身の思索にすぎない。そういうものを取り払い、ただ単純に表面に浮かび上がる服を切り口に語り始めるのだ。そこに表出するに至る思考について語りかけるのである。それは単純な装飾品とはまったく違う形態だったのだ。服=家である。彼はそのことをはっきりと知覚し、服の持つ役割についての再検討を促しているようにも見えるのである。もっとも表面的なその服に現れる、その内面の表現、また生きていくための服、布としての根源。流行が過ぎ去れば大量に捨て去られるそのファッションについて疑問を投げかけるのである。根源的な服作りとはなにか。決まった型ではなく、即興的に体に合わせ、それが着るもなのか身に付けるものなのかもわからない、その誰にも作ることのできない物、誰も身に付けることが出来ないもの。しかし独創性に着目するのである。空間によってそれは大いに受け入れられる。どの空間に属するかが重要であることもまた示しているのである。ファストファッションの中では受け入れられないその形態も、ひとつ日本を飛び越えてみたり、人の集う空間を模索してみれば、最高の創造作品に転換するのである。

 

失声症

 言葉がなくなるのである。なんの言葉も出て来ず、ただ黙り続けるしかなかった。声が消えていく。喋りたくないわけではない。むしろ喋らなくてはもう許容範囲を超えたその極限状態でありながらも、語る言語を持ち合わせていないことに絶望を覚え始める。いや絶望と誤認し始めるのである。結局は手繰り寄せるしかないのである。本とは知識を蓄えるための道具ではなく、生命の危機にさらされたその時に必要な言語を発見、出会う場であると転換する。その言葉と出会い始めた時に、その言葉自体が彼の中で自らのその鬱屈した、滞った塊を溶かし流し始めるのだ。これは単に勘違いを、新たな勘違いによって促し始めているだけなのかもしれなかったが、それでも苦しみが和らぎ始めることを実感しているのだから一向に構わないと感じているのだ。開いた瞬間に飛び込んでくる言葉に着目。そしてその言葉に反応している体に着目するのである。確かに体は反応を示す、興奮を示す。そしてまた新たな回路、言語を生み出しては、自らを生き延びる方向へと導くのである。そしてまた書くことを繰り返せば良いのである。ことは深刻なのではない。ただ騙し合いの連続なのである。いかに騙し合える関係になるかが鍵なのである。しかしそこに至るまではどこまでも落ち切る必要があり、その言葉に敏感に反応できるようになるのも落ち切った時だけであるのだ。そう考えると彼は生き延びる術を知っているように思えたのだ。文字に出会うことであったし、そしてまた自ら言語を生み出し続けることであった。

 

騙しあい

 思考回路の転換を試み続けることであった。人に触れる。人自体に触れるのである。文字を通せばいい。それは彼が発見したやり方であり、彼自体が彼にあったやり方、方法論を都度発見していくというのが何よりも重要である。そうやって騙しあいながら生きていくのだとも実感し始めている。根本解決など出来ない。そもそも根本に問題がない場合がほとんである。解決するべき問題はない。だからこそ根本について語り続けなくてはいけないこともまた事実であるのだ。その苦しみはただ脳の誤作動によるものである。徐々に修正していくのである。きっと、またすぐに元の回路に戻ってしまうだろう。しかし時間はかかるが何べんもその回路からの逸脱。試み続けることで、またごまかされ始めて、混乱を始める。どちらが正しいのかまったくわからない、判断がつかない。どちらでもない。ただ幼少期の記憶を辿るのみである。それはまたどこまでも続くのだが、もうその記憶は彼自身のものですらなく、何もかもが入り混じってその状態を形成しているのであり、彼自身の体験、その無意識にある状態、内包された全体がただその思考を形成する。どこにでも揺れ動くのであり、どちらか一方に固定することなどできない。ただ揺れながら、また落ちる。そこに一つの諦めのような感覚を抱いているが、どちらにせよ生きるための技術を身につけているのだと感じ始めている。それは資本主義ではない、生命の形成であった。資本主義と語り合うための言語の構築であったのだ。

 

f:id:mizokoji:20171102105522j:plain

少し体調が戻ってきた気がする。

 

--------------------------------------------------------

溝井孝司(Koji Mizoi)

連絡先:mizokoji@gmail.com

Twitterhttps://twitter.com/kojimizoi

Instagramhttps://www.instagram.com/kojimizoi/

--------------------------------------------------------