創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171104

子育て

 彼は子育てを続ける。彼は子供を育てる、教育をするといった経験自体を自らの人体実験により体験している。他人ではなくあくまでも自分自身の子育てそして教育を実施するのである。彼が今語りかけるその言葉自体はすべて自らへ向けた言葉であり、そのことを無視して果たして子育ては成り立つのであろうかと問いかける。私たちには子供がいるのである。もうすでに子育てをしているのであり、それは自立した経済を作る、資本主義と対等な関わりを持つための行いにすぎない。同調しないのである。まったく別々の主義や存在が体内に内包され続けているのであり、これはまさにリズムを強調しているにすぎない。これは文字ではなくリズムでもある。そういったことを無視してはいけない。湧き上がる、それは内面から湧き上がる表出するのであり"狂った状態"に入り込むこと。ゾーンとはすなわちスペースである。自ら立ちたがる空間に目を向けるのである。その変容についての研究であるのだ。根本的に生きていくことについては教わることができないのである。お金を稼ぐことが前提の世の中であるはずなのに、お金の生み出し方を誰も教えようとしない。自らその換金券を生み出し続けることが湧き水経済である。ただ自らの探求、創造活動、その痕跡に残る香りを、日本銀行券と換金していくのである。少しかたっ苦しいルールのようなものを柔らかく、より自由に、変換していくための仕組みのようなものだ。幻想からの脱却でもある。お金がなくては生きていけない、死んでしまうという、作り上げられた恐怖からの脱却であるのだ。あくまでも自らの経済を創り出すことが目的であり、現状ある資本を肥大させていくためではないのである。足るを知るのである。経世済民なのである。苦しみすらも内包させ続けることなのである。それは脳の誤作動であるのだが、そのメンテナンス期間は必ず現れてしまう。なくならないものをなくそうとすること自体がナンセンスであり、その状態でも運動を続ける機械と化すことがなによりも重要であるのだ。これすらも換金券に変換することができる。約束は守るべきだし、しかし守れる必要もないのである。ルールは決めるべきだし、決めるべきでもないのである。変えることができないということが問題なのである。柔軟性を失うことこそが、自身の喪失へと繋がる。変えることに躍起になるのではなく、作ることに躍起になるのである。社会変革ではなく、社会創造なのである。常に生み出し続けるのである。これは大げさではない。日々自らが生み出す作物に注目すべきなのである。

 

段ボール

 みーさんが段ボールを使って贈り物用の箱を作っている。スーパーで0円でもらってきた段ボールの表面を割いて剥がす。僕はその音を聞くと真夜中にラーメンをすすっているのかと思って勘違いし、そしてうらやましがるのだが、みーさんは夜な夜なラーメンをすするような人ではないようで、ただ単に僕の食欲がラーメンを想像させているだけだった。裂かれた段ボールの表面に水と絵の具を混ぜ合わせ、みーさん独自の色を塗りつけていく。その独特の色合いや、風合いのある段ボールは、段ボールという名前からは程遠い存在となる。何かその使い古されたボロ布が誰かの手が加わりリメイクされていく感覚と似ている。みーさんは0円でもらってきた段ボールを用いて立体作品を作り出していく。小さい小人や妖精が住みつくような家や城を作っていく。時に譜面台や、味気ないゴミ箱を"生命の宿る箱"に変容させるので捨てなければならなくなったもの丁寧に扱うようになる。みーさんは人の手が加わることで、無機質だった空間に生命が宿ることを知っているようだった。みーさんは自らの手で作るということがごく当たり前に存在している。身の回りに必要なものを自ら生み出すことが出来るのである。その思考自体が僕の研究対象であり続けるのだとも思えてくる。

 

居場所づくり

 僕は自分の居場所づくりについての研究をしているのだとも思えてくる。どこかに属することに違和感を覚えてしまう人間だったからかもしれない。所属したところで「この時間に意味はあるのだろうか?」誰かと一緒にいたところで「この時間は自分にとって本当に有意義なものだったのだろうか?」と常に考えてしまうのである。もっとも身近なものは家族であるのかもしれない。僕はその家族という居場所に馴染めずにいたのである。「自分が存在する居場所はどこにあるのか?」と問いを繰り返してきたのかもしれない。例えばそれは友人を作ることであったり、恋人を作ることであったり、学校へ行ったり、仕事へ行ったり、そういうことであり、そこで関係を築き居場所を構築していくものだと考えていたが、どうもそこで満たされるものがないわけではなかったが、どこかで「ここにも居場所がない」と感じ始めるのである。そして、外的な居場所は何もかもが長続きはせず、消えていくものであると認識したのだ。友人、恋人、職場、そういった場所は消えていく。すなわち作られた場所にどれだけ所属意識を持とうとしたところで、その居場所はいづれ消えてなくなっていくのである。そうして行き着いたのは自らが空間という巣を作るという試みなのである。自らの内面に自らが存在できる空間を立ち上げ、その世界で空間と時間の中に融け合うのである。その巣は脆くて弱いが、しかし力強い。何度でも自らの手で立ち上げることができるのである。僕はその作り上げた空間を元に、人と関わり合いたいと思い続けていたのだ。自ら立ち上げ続けるその空間同士を交易させ、交じり合いながら、どこまでも広がり膨らみ続けるそのエネルギーの中に身を置き続けることが仕事であると考えているのである。「私には才能がない、自信がない。」そう行った言葉を何度も自分に投げかけてきては「自分には何かすごい才能がある」と確信に満ちたその感触だけを頼りに、内面へとエネルギーを向け続けてきたのである。他人の評価に左右されず、景気にも左右されない。ただ自らが生み出し続ける、その湧き水のような状態を生み出せるのだと考えている。そして結局は試していないだけなのである。才能のあるなしではない。継続するだけなのである。試さずにとやかく言うこと、試していない他人の言うことを鵜呑みにすること、そして最終的には他人を批判し始めることがどれだけ無意味であるか。自らの内面で起こり続ける争いについての研究。口を紡ぐ。ただ静かに、手を動かし空間を生み出し続けることに集中し続ける。作り上げた居場所であるその空間を使って暴力を振るってはいけない。ただ自らが作り続けている。ただそれだけのことであるのだ。そのことを忘れてはいけないのである。

 

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今日も比較的暖かい。

ちょこちょこ外出計画中。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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