創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171105

肌寒い

 朝は肌寒い。冬がいつの間にか近づいて来ているようで、少し不安な気持ちが現れるのだが、それでもきっとまた冬を乗り越えることが出来るであろうと、前向きでもある。冬は好きなのだ。生きるために服を着る感じがするし、生きること自体に夢中になれる気がしている。もしかしたらみんなが寒さに負けないように自分のことに夢中になり始めるその状態が心地よいのかもしれない。暑くてイライラするとは言うが、寒くてイライラするとはあまり言わない気がする。少しこの季節は物悲しい気持ちになるのだが、怒りよりもその悲しみを素直に感じやすい時期なのであり、その空気感が好きなのは生まれが秋だからなのかもしれなかった。

 

見聞き

 彼は、人の話を聞いているようだが話を聞きながら自分ごとにしている。自分のことを考え始めるのである。話を聞いているようで自分のことばかり考えているのである。それが問題かと言われればさして問題ではない。問題にする必要もないし、作り出すこともない。それでもいつのまにかまた問題を作り出しては、その問題に固執し始める。しかしそれもまた一瞬のことであり、また次へまた次へと移ろい始める。何か悪いことでもしたのだろうか。彼は追われる男の光景をまた見ていた。兄は追われていた。彼はその兄がいじめられている、その対象であることを認識しながら傍観することに務め、彼自身はその対象にならないように振る舞い始める。その実の兄に対して見えない、陰湿な計画を企てる。ないものとし、存在を消したのだ。彼の目にはもう、兄という存在は消えている。それでも確かに動いていたし、生きているようだったが、彼は消し去り、それはただの人間のロボットのようなもので、そこに心など存在せず、ただ動いている物体として見なしたのである。恥だったのだ。自らの身近な存在に危険分子が存在しているとすら感じたのだ。彼は未だにそのことが和解できておらず、むしろ彼はその兄自体に変貌を遂げる。布団の中に潜り込むと兄となっている彼は、無数の足に囲まれるのである。囲まれた足に蹴られ続けるが、ただ無言で布団の中に潜り込み続けるのである。抗おうとはしない。ただそのことが過ぎ去るのを待っているだけだ。嵐が過ぎ去ることを知っていたのだ。貧弱な体を縮こませて出来るだけ固めようとし、ただその事が過ぎ去るのを待っていたのだ。気づくと彼は彼自身に戻ったようだった。しかし、その痕跡は根深く、しかしすぐに存在は消え去ってしまう。その存在を消し去ろうとも考えていない。ただ内包された存在として時折現れることに未だに嫌悪し、それ自体になってしまう自分自身についてただ傍観し、手を貸すわけでもなく、過ぎ去るのを待つ。混乱していたのだろうか。混乱はしていない。ただ空洞化された体内に兄が通り過ぎていっただけであり、そもそも彼自身など存在していないのかもしれなかった。ただその空洞に風が通り、水が流れていくようなそういう状態が永遠と続くのである。

 

 夢を見ることもひとつの技術であるのだが、夢を創造的な空間の建築行為であるとみなし、それもまた全てが継続であり訓練であるのだが、そのことを忘れてはいないだろうか。夢という現実を追体験するのである。夢自体に紛れ込み、そこで何べんも、自らの体験を味わうことになる。この夢の扱い方、存在の仕方こそが重要なのである。そこで誰と出会うか、何をしたか、どう振る舞う事が出来たのか。何べんも何べんもすり替えられるのだ。何もかもが多角的で、何もかもが決めつけることなどできず、ただ日々その認知はすり替わり、それは今この瞬間流れ込んで来た言葉なのであり、統合でも一貫性でもなく、ただその分裂した一貫性のない、多貫性を存続させ続けるのである。

 

書き手

 この何もかもの言語は書き手によって構成される人格であり、この人格は多岐にわたるのであるから仕方のない事であった。そしてこの書き手は何人もが所属しており一つの事務所のような状態となっている。この書き手の出入りは多くの人物がこの執筆作業に関わっていることを示し、何ら疑問を持つこともなく何人もの人格を形成し、変態する憩いの場となっているのである。書き手が無数に存在してたことは今に始まった事ではなかった。その無数に存在する書き手の存在を生かす術を持ち合わせていなかっただけであり、その存在の予感を常に感じていたのである。書き手の存在を承認することだった。ただ書き続ける。それは自動執筆の状態にもなりうるがそんなことは気にする必要もなく、何もかもがブリコラージュされた作品群である。センスとは審美眼であり、それは自らの感覚によってのみ、選び取るための審美眼は発揮される。その集合体こそが自らの経済を生み出すし、その上で何もかも人生を棒に振る事が重要であるのだと男は言い続けるのである。出入りを続けるこの公共空間は、誰でも自由な発言が認められえているのだろうか。結局ここでも管理がなされ、発言について押し殺される人物が存在している可能性もあるのだが、それでも書き手は埋もれている声についての集約の手を止めることはない。これは声のブリコーラジュなのである。様々な声の乱立を少しの手作業で、まとめ、発表。その繰り返しが日々行われる手工業、手生産の場となっているのである。

 

矛盾

 彼はいつの日も矛盾の中に身を投じるのである。あるものをないものにしてはならないと言いながら、あるものをないものとして来たのである。しかし、見えないことをただ見えるようにしているだけであり、それが聞こえるように、また触れられるように、体内から表出させているだけだった。何も難しいことはしていない。ただ思考を続けた。止めようともしない、睡眠はその延長。整理、創造的な訓練、その過程である。彼が、言っているのは批判ではなく自らの問いを持ち続けているだけであるのだが、そのことを批判と捉えて口を閉ざすのもまた自分自身であるのだ。ただ自らはどう考えるか、どう感じるのかを問い続けているだけである。ただそれは探求の連続でしかない。そこにしか興味がないと言うが、実際はその表層にあるものに興味を示し、その表れた実態を愛でるように観察するのである。そこには何の違和感も存在せず、ただ表れた状態について、その経緯、生育環境、生い立ち、家族構成などを持ち合わせながらの考察が続くが、それももはや書物としての創造物となり、ひとつの創造活動、空間の建築が日々行われているのであり、結局その人自体に興味があり、その浮かび上がる個々人について描き出すのである。

 

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今日はこれから一山超える。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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