創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171106

山越え

 約5ヶ月ぶりの山越え。鎌倉から洋光台まで。一度歩いているからか道に迷わずスムーズに歩けたが、やはり一度目に比べると達成感が少ない。それでも歩いたと言う事実は変わらないのであるが、達成感を感じる事ができないと何かをやっていると言う感覚を得る事ができない事が多いのかもしれない。やった事がない事、経験したことのない状態へ飛び込む事、それもまた重要であるし、それを永遠に続けるしかないのだが、日々のこうしてやったこと、やれたことというのを受容していくこともまた必要である。充実感と平穏のバランスを自分自身で作り出すことであった。それでも森に入るあの瞬間の感動は何度でも訪れるし、季節によって出会うその森の姿にきっと何度でも興奮するのだろう。栗がたくさん落ちていたが、栗の出し方もわからない僕はやはり生きる力がまったくないのだと思える。足でめくるらしい。足でめくって中身を取り出すらしい。その栗が今はとても美味しいらしいのだ。泥濘に足を踏み入れる事、足を滑らすことはコンクリートだらけの地面では出会うことのできない感動がある。危険なのではない。出来事としての感動なのである。だからこそ一歩一歩を踏みしめるし、右足、左足とただ交互に足を踏み出すその自らの行動自体に生命力を感じるのである。森を歩くことはどこか退屈させない。街にはたくさんの楽しそうな装いをしたものが溢れているが、どうしても退屈しどこか胸騒ぎのような、焦燥感のようなものを感じさせるが、森を歩くことはその足元から伝わるその風景はどこまでも広がるし、一定の風景ということはない。同じ風景ではなく、風が吹き、そして木々は揺れ、葉は落ち、その落ち葉の踏みごこちや、出っ張っている木の根っこ、その力強さ。鳥の鳴き声、リス、外来種たちの繁殖。観察することだらけなのである。この微細な変化、反応に目を向ける事がどれだけ自らの内面に潜り込むことと似ているのだろうか。しかし、この文明による現実こそが自らが生きて来た世界でもあり、これこそが現実でもある。どちらも現実である。どちらも同様に存在している。そしてその内面から生み出される空間という創造物もまたひとつの現実として捉える事ができるのである。何もかもを否定することも出来なければ、消し去ることも出来ないのであり、なにもかもから何らかの恩恵を受けて生きているのであり、その中で自分自身が何を選び取るかにすぎない。そこに他者の目や、社会性などそういった大きな同調の強要は聞く耳を持つ必要はない。あくまでも自らの空間、経済、政治を持ち続ける事がひとつの目的であり、それこそが養われた人間のセンス、生きるための知恵、技術なのであり、それを生かしている人間がどれほどたくさんいるかを忘れてはならない。そういった、生命を維持するための才能に着目し、それを表出させることが彼の仕事であるのだ。目利きである。ありきたりのセレクトショップではない。それは家に眠っていた寝間着なのかもしれない、少し人の手が加わったリメイク品なのかもしれない。その可能性、その何気ない手仕事、そこから宿る生命の予感をいかに嗅ぎ取るかなのである。散乱する倉庫、ゴミ置場など様々な場所から発掘される。それはその目利きが鍛え上げて来た嗅覚であり、センスである。それこそがこれから重要な役割を果たす。

 

経済圏

 Mちゃんは自らが暮らす、生きるための知恵を持っている。どの野草を食べる事ができるのかを知っている。その野草を少しだけ積んで家にあるプランターで育てる。そして食料を自給的に生み出す。旅行先でとあるりんご農家さんに「写真撮らせてもらっていいですか?」と気さくに話をかけるのだ。すると農家さんは「りんご食べて行きますか?」と少しだけ傷ものではあるがとれたてのりんごを取集する事ができる。この時あくまでも目的はりんごが食べたいなのだが、写真を撮らせてもらいたいと言語を返還する事でりんごと農家さんとの距離を縮める絶妙なコミュニケーション能力、人との距離の測り方を持ってる。Mちゃんの家の目の前に柿の木がある。秋になると無数に柿が生えてくるそうだ。それを毎年もらえるような"契約ごと"を生み出す。その関係を作るために、ご近所づきあいという交流を測り、そこで無償で柿をもらうという0円での経済を生み出している。お金をかけずに生きていくための知恵をMちゃんは豊富に持っているのである。収集するだけではなくそれを増やすための技術、知恵を知っている。そこにMちゃん独自の経済という生命の予感を感じるのである。Mちゃんは物を収集する癖がある。ただ物が溢れてしまっているようにも見えるのだが、そこに宝物が眠っていることが多々あるのである。ただ物を集めているようで、そこにはMちゃんのセンスが隠されている。その洋服を何着かをタダでもらって普段着にしているのはまぎれもない僕自身なのだが、これもまた一つの目利きとしての能力であるように思うのだ。埋もれているものから、宝物を見つけ出すのは僕の役目であるのかもしれなかった。そしてMちゃんにはただ不要なものが集めているというより、集まった物を使ってリメイクしたりもするのであり、例えば、シャツを解体し新たなシャツを生み出したりする。そうやって自らの手で新たな作品に仕立て上げてしまうのである。再生するための収集、新たな経済を産むための収集癖なのである。

 

語り部

 彼はその背景を眺めていた。その生命、家族について、そこから漂う予感について敏感に嗅ぎ取ろうと努めるのである。これ自体が彼の収集癖であったのだ。彼は決して何か深いところで何かを読み取ろうともせず、ただその表面に湧き出る、身につけられている、まとっている状態から、その生育環境、親族からの流れについて身を置き、それをまた書き連ねようとしている。これは家族たちについての書物であるが、それはあくまでもそのその人個人たちの集合体であり、いかにしてその個人が形成され、それがまた親であり子でもある、その男や女といった何かもをないものにするでもなく、築きあげられて来た建築を眺めるように観察を試みるのである。それはあくまで表面的でありながら、その内包される割合のようなもの、その変わりゆく割合についてを何もかも受容する。しかし、徹底した排除の精神すらも持ちわせている。その曖昧な状況下で、語り尽くす事がいかに重要であるか、それこそが語り部であるかをただ書き連ねているのだ。

 

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久々に山越えして筋肉痛。

山は酸素が近い。

コンクリートは酸素が遠い。

 

コンクリートがあるのは車輪のため?

人の体のためではないように思えてならない。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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