溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20171107

点と点

 彼は線の上にいるのではなく、点と点の間を瞬間的に移動しながらその瞬間のみ存在し続けている。すなわちその一方の点の存在を消滅さえ、その瞬間一方の点が存在している状態なのである。無数の点が存在し、あちらこちらへと飛び回り続ける。留まろうとはしない。ただ赴くままに行き着く先に漂着する。これは指示によるものではなく、ただ単に体自体の運動にすぎなかった。体の運動を通してその漂着した人格について検証が進むのである。いたって冷静ではあるが、興奮は隠せない状態である。いかにしてここに至ったか。果たしてその間に何度点と点を行き来し続けているのか。これは劇団による公演。演劇である。舞台上、そして舞台裏、天井、観客席、照明、ミキサー。様々な位置に立ちそれぞれを感化させる装置となりうる。ここに影響を与えうる有害物質と捉えるか、はたまた薬物と捉えるのかはそれぞれの見解によってしまうし、それ自体が良薬であるのか麻薬として取り締まられるかは時代によるものが大きかった。その分泌、栽培については何もかもが内密に行われる。決して、暴かれることはない。暴かれることのない暴動が起こり続ける。取り締まりは強化されていた。外圧的な暴力が散乱し始める。その瞬間に起こる彼の反応は如何なものか。昇華に次ぐ昇華。あるはずのその胸の、心臓で起こるポンプの運動、その鼓動、そこで起こりうる暴動について何もかもを、昇華、そして昇天させ続けているのである。「意味はあるのか?この行為に、行動に果たして意味はあるのか?」男は叫び続ける。そして常に疑問を問い続ける。意味ではないと何べんも口にしながら、それにもかかわらず男は質問を繰り返し続ける「意味は?この行為?、行動の意味は?理由は?」問われ続けるのはその行動に価値があるのかどうかだが、果たしてそこで言われる価値とは何を基準にした価値であるのだろうか。資本について言っているのか。紙幣について言っているのだろうか。彼が所有する書物が紙幣に変換される事がなければそれは価値のない事なのであろうか?意味のない事なのであろうか?それにも関わらず、彼は永遠に指を止めることはない。ただ日本語という記号の集合体を解体し、置き換え、ブリコラージュさせていく。彼はこれを「日本語を使った独自の言語である」と述べている。ただ使うことのできるツールを使うことだった。すでにある、体験済み、ただ流通されていない、しかし流れ続けるその空洞から通りに受けて行く、風、そして水、その水たまり、大きな水たまり。どこまでも続くその水たまりの水位が変わることはなかった。雨の日も晴れの日も、その水位の変動は起こることはないのである。しかし現在では水による暴動が繰り返される。水は買い漁られ、その生命の源である水すらも貨幣というお金を用いなければ交換する事が出来なくなっているのである。そしてまた土地をめぐる争いが続く。なぜ土地を所有することなど出来るのであろうか。この逸脱した自体に手を打つのは今まさにこの瞬間に生まれ続ける、文字、すなわち言語であるのだが、その包み隠された隠蔽について、彼はその素性に潜り続けるのである。これは至ってシンプルな動機にすぎない。衝動ではない。ただ論理的であってはならない。ただの動機にすぎなかった。その機会を伺っていたにすぎないのである。この瞬間に安定剤が投入される。安定した状態を維持する。しかしこれもまた錯乱の一側面にすぎず、脳の誤作動による暴動、警告を続ける。避難、避難、避難訓練。それもまたひとつの社会であった。避難訓練株式会社。その誘導を素直に受け入れた時に起こるのは、混乱と錯乱への第一歩である。それは震災に対しての避難ではない。平穏と言われる中で危機的な状況へと追いやられるその浮遊した民族、人類の研究そしてその避難訓練の訓練の永続的な敢行である。これは塞き止めることのできない波自体にいかに飲み込まれ、いかに救助するかの自主避難なのである。震災は日々起こっていたのである。ある世界ではもうすでに彼は逃げ惑った先で銃殺されていたし、その兄においては蹴り殺される寸前のところまで至っていた。その状況を克明に記録する事が、私の役割なのである。これは事実確認ではなく描写にすぎない。スケッチである。素描の繰り返しなのだ。そのドローイングの線にこそ着目しているのである。完成された絵ではない、着目すべきはそのドローイングされた薄っぺらい紙切れなのである。その痕跡についての解析を進めるのである。そこに宿る運動、生命線、躍動、暴動、その阻止に当たる軍隊の保持など、様々な世界が鉛筆から生み出されるのであり、その症状こそ着目すべき点である。分裂状態を受け入れた先に見えるのはただならぬ、生物の進化、細胞の発展である。いかにしてその状態を芸術という行為そのものが消化するのかを、彼はもう知っていたのである。これは絵であったのだ。文字による絵画の創造である。どちらも補うためには存在していない。どちらも独立した状態で立ち連ねるのである。どちらかが崩れ去ろうとしたところでなんら問題はなかった。また彼は口を閉ざし、その建築に専念する。それは仮想空間と言えるのだろうか。至って真っ当な現実的空間なのである。徘徊を受容した先にあるのはその場所すらも飛び越える、その人間が作り出す最高傑作なのである。行ったこともないはずの場所へと彼は行き来を繰り返しているのである。そこに広がるのは古い建築物であった。ドイツ、ノルウェーなど様々な風景が広がる。彼はただそのことを吐き出していた。その毛玉に絡みついた唾液に潜む食物の記憶、水の記憶、その毛玉自体に絡みついた家族関係、そして彼を取り囲む記憶、言葉、そのポストイット。その集合体、一つの毛玉となり、何もかもが絡まり合い、一つの質感として現れその球体を覗き込み、時には味わい、愛で続けるのである。これは伝統的な文化、宗教への困惑であった。彼は困惑を続け、根こそぎ採ったその木の根っこに蹴つまずいては、また歩き始めるのである。なんら、なにもなかったような顔をして、なんの異常もなく、何も起きていないようなそぶりを見せて、また歩き始めるのである。

 

  

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天気は晴れ。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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