創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171108

こだわり

 コーヒーを淹れて一息つく。彼は決まって豆の量を多く淹れすぎてしまうのだが、その濃さがまた好きであるようで、その分量であったり、標準的な基準というものでは測れない好みというものが存在していた。決まって作家さんの作ったコーヒーカップでコーヒーを飲むのだが、それは持ち心地から口あたりまで何もかもが心地よい"サイズ"なのであり、それはやはり触れてみて始めてわかることであるのかもしれなかった。その感触を辿るとまた雨に打たれていたのだが、それでも自転車しか移動手段がないと信じ込んでいた彼は懸命に傘を差して自転車を漕いでいた。カッパを着るのはどうしても嫌だったのだ。彼にはそういったちょっとしたこだわりがある。それは側から見れば変なこだわりであるのかもしれなかったのだが、彼自身にとってはそうではなくてはならないこだわりのようなものであった。果たしてそのこだわりが重要であるのだろうか。彼はそのこだわりについて何もかもを溶かしてしまいたいと考えていた。こだわりさえなければ、その突如現れる無理解なあの感情に押しやられることもないであろうと考えていた。しかしそれは彼が養ってきた美的な感覚であるのだが、彼はそのことを受け入れることに未だに莫大な時間を要すると考えている。彼は窓を開けずに、窓の外を眺める癖がある。そこに何かあることを期待しているわけではない。ただその囲まれた家の外にある様子が気になり始めているのかもしれない。

 

少年のクマ

 ソファに腰掛けた少年のリュックにはクマのぬいぐるみが3体つけられていた。少年は落ち着かない様子ではあったが、私はそのクマのぬいぐるみをつけた少年自体に関心を抱く。少年は大人であった。それは見た目の話であり、見た目のみを見れば背も高く大きい、大人であると断定されても仕方がなかった。しかし私はそのクマを見につけるその大きな少年のその空間に興味が湧いていたのだ。少年は未だに誰からも崩されることなく、自分自身で空間を、あの頃のまま、子供の頃のままの空間を身につけていた。身に纏うということに成功したといっていい。私は一瞬少年のことを変人であると断定しかけていたが、それではいけないと、真摯に少年と向き合おうと決心する。しかしこれは私の観察にすぎないし、私自身が感じていることを述べているだけである。決して、学術的なことを述べているわけではないし、果たしてその客観的なその意見が何もかも正しいと言えるのだろうか。ただたんに少年の内側にある、その広がる世界に関心を持ち始めていただけであり、私はその時すでに少年だったのだ。私は一人だった。水色の割烹着のようなものを着せられて、えんじ色の短パンを履き、いかにも幼稚園児といった装いを強要されていた。私は庭が見渡せる窓辺に立ち、窓辺からその白い庭を見渡していた。青いジャングルジムが目に飛び込んだ時、私はジャングルジムのてっぺんで友人たちと写真撮影をしていたのだ。黄色いカバンを肩から斜めがけにしている。お母さんの手を握り、ぎゅっと握りしめた。母の手からはその反応に応えるように、またそれすらも引き離すように感じられたのだがその時私はもうすでに手を離していた。また一人だった。窓辺に立ち尽くし、それでも私はクマのぬいぐるみを抱きかかえて、話をした。その場でしゃがみこみ、シートをひいてその上で、食卓を作った。これはおままごとではなかった。そこに私自身の家族がいたのである。

 

猫のクリ

 猫のクリは白黒の猫で、なんとも愛想のないやつだった。すぐに噛み付くし、引っ掻いてくる。家族からも嫌われた飼い猫だった。僕はそのクリの態度を気にいりなんとかお近づきになろうと考えた。クリは一人好きだ。甘えたいといった感情もどうやらないようだったし、近づけば引っ掻かれるのが落ちだった。それでも食事についてはしっかりとこの家の中で契約を交わしているようで、しっかりとありついていた。ある日僕は犬の被り物をしてクリに近づいた。君と同じ、または似たような動物であることを示し、少しでもお近づきになろうとしたのだ。クリはそんなことには騙されない。またきやがったと言わんばかりに怪訝な顔を僕に向ける。それでも僕はクリを掴み、お腹の上に乗せ、撫でることに成功したのだ。クリはあからさまに不機嫌な態度を僕に見せつけるが、そんなことは御構い無しだった。僕はそのふれあいに満足していたし、触りたかったのだ。触れることで何か愛情のようなものを感じていたかったのである。

 

雪とサンタ

 ソファの上に飛び乗り、窓を開けるとベランダには一面雪が降り積もっていた。真っ白の世界を初めて見た僕は興奮のあまり叫んだ。「見て、見て、真っ白だよ!」僕はそう叫びながらこれを雪だと後になって知るのだが、とにかくこれが食べれるものなのかどうかが気になって仕方なかった。母は「汚いからやめなさい」というが、ババは違った。「食べてみようか?」と一緒に食べたのだ。雪を口に含んだ時のあの冷たさ、キーンとしみる感覚は未だに僕の口の中で存在し続けていた。それから数日後、ババと僕は玄関を開けて空を眺めたのだ。クリスマスイブだったから、サンタさんを探そうといって外に出た。肌寒いとは思わなかった。ババにおんぶされて空を眺めた。「サンタさんいないね」僕は目の前を走り抜けていく電車を眺めていた。その時だった。僕は確かにその空に赤い光を目撃した。「ババ、あそこ赤く光っているよ!」「ほんとだね。サンタさんきたね」僕はババと一緒に人生初めてのサンタさんを目撃した。きっと沢山飛び回っているし、忙しいんだろなと思った。そして嬉しかった。ありがとうと思った。僕は確かにその日赤い光を、ババと一緒に見た。そしてそれをサンタさんだと思ったのだ。

 

発掘作業

 次第に街にあるもの何もかもが汚いものだと認識し始めていた。生えている植物。木から生える蜜柑や柿。そういったものは汚れているし、汚らわしいものであり、全てはスーパーやお店を通して手にいいれなくてはいけないと考えを持つようになっていたのだが、これは果たしていつからだったのだろうか。本当に汚いものなのだろうか。どうしてそんな観念を抱いたのだろうか。汚いと感じているのは彼自身であったし、物自体に汚いとか綺麗とかそんな概念はなく、ただ汚れていると感じるなら掃除をしてあげれば、綺麗にしてあげればよかったのである。それなのに、何かもはもう触れてすらいけない、菌が反映しているものにすら見えてしまっていたのは、それは幻想に過ぎないのではないか。生きるとは採取する力ではないのだろうか。切り捨てることなく、その山、そこにあるゴミの山と言われるところからすらも、目利きの力を用いて、生かせるものを再生する力なのではないのだろうか。埋もれた状態からでも構わない。発掘せよ。とにかく丁寧に、少しずつ発掘作業を繰り返すだけだったのだ。

 

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たまっていた写真もちょこちょこ載せようかと思った。

何年も前の写真が今の自分にとって大事なことを捉えていたりする。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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