創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171112

錯覚

 からし色のセーターを着て歩いている人。一瞬オレンジ色が入り込む。すぐにからし色に戻った。錯覚だったのだろうか。しかし、ほんの一瞬その色の錯覚を起こしていたことを彼は知っていたのだろうか。ブルーシートの上には、アクリル絵の具、絵筆が数十本とかなりの数が置かれていた。鉛筆、色マジック、筆ペン、新聞紙、タオル、紙パレット、バケツ。様々なものが、意図され、選ばれ、決まっているかの様にそれぞれの場所に置かれている。適当に正確に。ブルーシートに置かれた水張りされている木枠はどこか水に浮いている様にも見えた。窓からぼやけて見えるものは洗濯物だった。おそらくオレンジ色のバスタオルだ。風で前後に揺られている。時折ひっくり返る様な素ぶりを見せるが、それでも、もとの干された形を選び取り戻ってくる。壁には油絵の作品が飾られている。F6サイズだった。彼がいつも紙に描く絵のサイズと一緒であった。そのサイズが特別良いと考えているのでもなく、それはたまたまそのサイズを選んでいるだけであり、強いこだわりがあるわけでもなかった。それでも最近彼はまたその描くというスタンスが変わり始めてもおり、一枚に費やす時間が増え始めている。塗る、こする、重ねる、動かす。描いているというよりは作っているようだった。様々な運動を用いては、絵を作っている様であった。それは彼の状態がよく現れていた。集中していたかと思えば、まったく集中力を欠いた状態に感じられる事もある。しかし重要なのはその様々状態の中で運動を繰り返すということであり、結果というよりは、その瞬間の交信的な繋がりに着目することであった。本来の芸能とは大衆的なエンターテイメントでなかったことを彼は知っていたのである。芸能とは神と精霊との交信であり、歌い踊る。そして狂い続けることなのである。ただ発狂とか、おかしなことを言っていればいいというわけではないのだった。ただ全くの空洞になるということである。何もかもを仲介する、通り道にする空洞なのである。体は空っぽだった。眠る、埋もれる、追いやられる、死んでいる。そういう物、人たちの声の代弁として、ただ日本語という言語を用いて自らの言語を作り続けるのであるが、それはただの訓練である。日々の訓練なのだ。毎日続けることだった。どうしてそんな当たり前のことに行き着いたのか。彼は逃げていたのだ。ずっとずっと逃げていたし、もう結果を求められる様なことはやりたくないとすら考えた。彼はプレッシャーに負けそうになっていたし、またあの苦しみを、我慢を味わうことに耐えることが、もうできそうにないと感じていた。しかし彼の苦しみとか我慢というのは、そのつくりあげられた上下関係であったり、そこで行われる暴力的な、男性であることの強要であったのだ。彼はその手から逃れようと躍起になっていた。もう追っては来ないと思っていると、また隣にぴったりとくっついては、いつまでも並走してくるのである。彼はその並走してくる暴力的な何かから逃げ出すための、逃げ道を創造し続けた。しかし、もうそういった外圧的なプレッシャーを与えるものはいなかった。全てが幻想であり、彼は囚われの身でありながらも、自らを投げ出す覚悟を持ち、ただ永遠に内面へと潜り続けるのである。その行為の意味を問う必要がなぜあるのかわからなかった。ただ自分自身の過去をたどっていけば何もかもを知っていただけなのである。「扉を開けなさい。蓋を開けなさい。ドロドロにかき混ぜ、錯乱し、そのカオスを味わいなさい。混沌としたその状態、街自体となり、溶け込みながら、自立しなさい。」それは結局は依存的な行為ではあったが、何よりも自立的であると彼は思いついたのだ。混沌としたその状態に飲み込まれしがみつきながら、その状態に寄っ掛かりながらも自立するのである。何もかもに寄りかかる状態であるのだが、それでもその彼の何もかもを余すことなく、活かし続けることが何よりも重要なのであり、そこを遠慮する必要もなければ、何よりもこの自尊心を失うためにある様なプログラムに同調してはいけない。「本来、我々は同調などできない、共感などできない」のだと彼は言うのだが、実際の所同調しているように、共感している様に振舞いながら自らの揺れを感じているのであった。これはその投げかけに対して、自らの振動に着目することでより深い何か言葉の様なものを手繰り寄せようとしている。そこで行われる言語にはあまり意味はない。意味を大事にするからこそ言葉を選ぶが、その内側にあるものを付着させ、その振動する言葉、音に着目すべきなのである。そこがフォルテだピアニッシモだとかついている記号についてわざわざ聞こうとはしない。ただその流れてくる音楽に注目、着目し、その音と音、内臓と内臓を響かせ合う。それがハーモニーになるか不協和音として轟くのかなど考えずに、まずはその音楽を鳴らしあうことから対話はスタートすると彼は考えているのであり、我々はそのことに強調し、黙って彼の話に耳を傾け、そして筆記、記載、記憶できぬ記憶、壁にある痕跡、その壁自体となり、引っかき傷を作り出し続けるのである。効果や効能は自らが作り出すものであり、それこそが備わっている能力なのであるが、その力を忘れてしまっているのだからたまったもんじゃない。本来、人間に備わっているその、効果効能は結局自らが何を感じ取るかであり、その感じとるという能力は生まれ出るその以前から備わっているのだが、そのことを忘れ、詰め込み、詰め込みが進むのであるが、それが悪いものであるとどうして否定ばかりが出来るのだろうか。そしてまた対立。対立に次ぐ対立でこの世の中は仕組み上出来上がる。その幻想に浸っているのだが、それを現実とも呼ぶ。彼はどちらも現実であると言う。そして彼の芸能、芸術とは社会を変える行為でありながら、社会を作る活動でもあり、それは家族であり、また個人の精神性についてなのである。他人のことをとやかく言うことなどできないのだ。そんな暇があるのなら手を動かすことでしか、行き着けないのである。行きつきたい場所があるのなら、いけばいい。自らが生み出せばいい。元来あるはずのものであるが、それは訓練である。ただ続けるか続けないかそれだけなのである。素直にやるかやらないか。死ぬまでやるかやらないか。ただそれだけのことで、人生を棒に振ればいいだけのことであった。それこそがもっとも自分を信頼すると言う行為なのである。

 

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昨日は友人と話す。

3時間くらい。

 

今日は月光荘へ。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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