溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20171115

年越し

 朝になると冷え込みが強くなっていく。お腹も若干下し気味。また夢で交通事故に遭う。車に乗って事故にあったり、ブレーキが効かなくなったりする夢をよく見る。昨夜は仙台麩鍋を食べた。味がしみていて美味しい。〆はうどんで。最近は油絵の具で描いた。進んでいなかった織りも進む様になってきた。スーパーでお餅を眺めていると年末のことを考え始める。子供の頃は友達と朝まで遊んだり、カラオケにいったりした。次第に車に乗って初日の出を見に行ったり、そういう過ごし方が当たり前になって行ったが、段々そういうこともしなくなった。なぜかお餅を見たら物悲しい気持ちが襲って来た。ここ2年間はみーさんと過ごしていることを思い出した。一昨年は横浜の大桟橋で年越し、そのまま歩いて神社に行き、朝まで一緒に過ごした。何というかもうオールはできないと思った。もともと朝まで遊ぶみたいなそういう雰囲気が苦手で、絶対に途中で寝てしまうのだ。起きていられない。体にストップがかかったよう眠ってしまう。それでも何度もあったその時間を思い返すと、そこに居合わせることは楽しいとも思っていた気もするし、ただ体質的にあっていなかったのだと思った。昨年は鎌倉に越してきていた。引越しが終わったばかりでバタバタしていたが、みーさんと二人で鶴岡八幡宮に年越して出かけたがあまりの混雑に一礼だけして帰ってきた。あれからもうすぐまた1年が経つことや、またなぜか物悲しい気持ちにさせる年越がやってくるのである。

 

大阪

 彼は昨年、大阪に行き、モデルの仕事をすることになっていた。デザインされた着物を着て、決められた動きをする。そのための練習なども行い、本番を迎えたのだが、今思えば完全にその窮屈な状態が鬱を誘発していた。身動きが許されない、自由を許されないその環境にもう言葉すら出なくなっていたし、その日はもう誰とも会話が出来なかった。言葉が出てこなかったし、喋る気も起きなかった。打ち解けようとも思えないし、もう限界だったのだ。そんな記憶がふと蘇っていた。それが彼の望んでいた環境には思えず、むしろその窮屈さに限界を感じた。彼は次の日奈良に向かっていた。奈良駅に着いた彼は、公園を歩き鹿の群れを眺めながら、春日大社に向かっていた。一人で春日大社に向かう緑道を歩く。森の中にさまよい込んだ。ちょっとした山道を登り長椅子に腰掛けた。少し雨が降っていて、木々の匂いが身体中を包み込んでいた。彼はそれ自体を纏うことに喜びを感じていた。

 

アクセル

 徐々にアクセルを踏んでいる。急に踏んだところで空回りしてそれは暴走的に体に乗り移るのだから、じっくり馴染ませれば良いだけだと考えていた。どうしてそんなに強くアクセルを踏みつけることばかり考えているのだろうか。しまいには、ブレーキは故障し、もう歯止めがつかなくなり、ハンドルを何とか切ってはいるが、スピードに乗り切ることは出来ず結局振り切られてしまうのだ。慌てて踏んだところで、操作はできない。ただボロが出る。落ちていくそのメッキに何の意味があったというのか。それは素直になるということなのだろうか。またこれまでと違った思考が入り込んでいることは確かであり、これまで正しいと思っていた考えを何もかも改めなくてはならないのだから、そうやって流れに合わせて変化していくことを楽しむしかないのである。そしてまたいずれ変わる。どうせ変わってしまうのだ。点と点を飛ぶ。その間には線があるが、点と点を瞬時に飛んでいるのだ。瞬間移動であるのだが、その飛び移るその瞬間の私はどこに存在していたのだろうか。飛び移るその瞬間に私は死んでいるし、その間は私ではない何者でもない、その人物に出会うことになるのだが、今はただこれまでも存在していたその人物が改めて登場し、彼はセンチメンタルであるし、何もかもを物悲しいと感じてしまう性質があるのである。これは季節による影響なのかもしれない、定期的に確かに訪れる感触であるのだ。自分の未熟さを実感し、そして寂しいと感じているのであり、それは心細さだったのだ。そうやって彼の胸に起こる反応は、これまでの鬱々とした苦しさとは違い、心細さのような、その物悲しい感覚なのである。

 

作戦会議

 呼吸することで乖離させる。まったく別の存在としてそのままを確認する。ただ内包しているのだから、今は何が出て来るのか、ある意味ランダム的な状態であり、ただ観察することで共存を試みるのである。対話を求めようとしてはいけないし、最も対話すべきは自分自身であり、その話をもっとも聞くべきであるのだ。彼ら彼女らはいつの日も語り続ける。彼ら彼女らは語り部としての役割を単に全うしているだけであり、私自身はただそれを書き記す役割にすぎず、今書き記しているのは私であるが、語り続けているのは彼ら彼女らであり、そうなるとこうやって書いている人物も彼ら彼女らであることを否定することはできないのである。これは作戦会議であるのかもしれなかった。単純な話で、答えを知っている本人にただ聞いているのである。そしてその答えを聞き出してはまたお互い演じる。語り部と聞く耳での共謀であり、それは悪事ということはできなかった。ただ単にお互いが演じ続けているだけなのである。さもそうでなければつまらないと言ったように、ただ単に演じることに意味があると言えた。結局我々は演じ続けているのであり、何もかもをその振る舞いによって決めている。それは今日着ている服からも露わになるであろうし、その身にまとった漂いすらも演者としての役割であるのだから、ただ仕事を全うしていると言えるのだ。今こうやって混乱したままを、何の意味もない言葉を書き連ねているが、これは実際に語り部たちが何の気なしに口を開いている独り言のようなものであり、ただ独り言が飛び交っていることが混乱を生み出しているのだが、それを否定とも迷惑とも取らずただ出来るだけその中で集中することに専念すべきであり、何も黙らそうとすることはないのである。そんなことをした瞬間にまた新たな問題を自ら見出すことになるのだから、そんなことをわざわざ自発的に行うことはない。ただ語り部と、聞く耳、そして書記についての役割をそれぞれ全うしていれば良いのである。

 

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徐々に慣らす。

慌てないこと。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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