創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171116

無意味さ

 彼はやっていることの無意味さを考え始めていたのだが、そもそも意味や理由など必要はないはずであり、ただ運動として書くということを続けているだけなのであるが、その文章が至って成り立っていないことや、崩壊していることからして、それが何の意味があるのか、誰が読むのかと考えている。そもそも誰のためであるとか、そう言ったことは無意味な考えであるし、なぜならこの行動自体を続けざるを得ないからであり、ただ行動しているに過ぎない。実際にこうやって書くことで自らの考え、言動、感覚を眺めることができるし、その効果効能はただ単に自分が落ち着くことのできる、ただ何か価値があると感じることのできた空間と時間である。ただその空間を作るために文字は扱われるし、最も手っ取り早い方法としてただ文字を文章を選び取っているだけである。「こんな書き方して何か意味ありますか?必要ですか?こんなところに書き続ける必要もないのではないでしょうか?どうしてやっているのですか?なんで?理由は?教えてください。でないと彼は落ち着くどころか、また渦の中へと身を投げてどこに出口があるのかとさまよい始めるのです。それが許されるのでしょうか?そうしていいはずはありません。私は心配しているのですよ。間違いがないように、失敗がないように。そういうことを味合わせないように。ただ監視しているだけなのです。それなのにどうでしょう。結果はこれです。また身投げ、渦の中に飛び込み出口のない渦へと飲み込まれて行くのですから、たまったもんじゃないですよ。」語りかけているのは親だった。それは彼の親ではなかったし、大衆の親、すなわち親という概念による親だった。その親は失敗や間違いを子供にさせてはならないと、その恐怖政治を決行する。とにかく監視の目を緩めることなく、何ひとつ間違えてはならないと言った表情で彼を見つめ続ける。そして行動の一つ一つを正していく。右手の動きが違う。箸の持ち方はこうであるとか、歩き方はもっと姿勢を正さねばならないとか、生きることそのものについて、何もかもの失敗がないようにと手取り足取り教え続けるのだが、それを言われ続けている彼はすでに失敗を恐れ始めていたし、いつまでたっても失敗がなくならないことにもう限界を感じていたのだ。これは呪縛である。これこそが呪縛なのだが、それを彼自身が生み出しているとは思いもしなかったのである。親自体をも自らが生み出し、その概念の元で彼は右往左往しているのだ。ただフラフラとしていた。その先ではいつも親の目が光っている。これはまったく側から見れば違和感のない光景に成り代わっていた。

 

正しさとルール

 正しさやルールによって彼の中で不安が生じ、そこにいる監視の目が気になって仕方ないその状態が未だに続いているのだが、果たして終わらせることはできるのだろうか。これは彼の考えではないし、ただ流れてくる言葉を書き連ねるという運動に過ぎない。しかし、これは本当に流れて来ているその純粋な思考そのものなのかと言えば、人目に触れることを気にし、それゆえにそこに優劣をつけたり、検閲が入り込んでいるはずである。彼はそれではならないと強く思うのだが、そう強く思えば思うほど、また強い優劣の関係や、検閲が入り込み彼を混乱させている。これは自らが作り出している混乱と言っていいし、精神科が言っている病名というのもその概念自体に押し込めるための概念であり、しかしその概念自体に思考停止し名乗りを上げて、聞き入れているのも本人たちなのであり、そういったものすらも自ら作り出すという創造性が必要であり、これは性質や個性と言えるのかもしれないが、もはや有名人であるとか著名人であるとかその振る舞いをどれだけ取り入れようとしても本人にとっての振る舞いというものがあり、それは滲み出ているのだから、どうして何か表現することが正しいとか、素晴らしいとばかり言えるのだろうか。そうではなくおかしな表現をすることもなくただ存在していればいい、それだけの人物もいるのである。わざわざ何か強い意思表示をする必要があったのだろうか。彼女が描いているキャンパスから伝わってくるのはその優しく、静かな意思表示であり、決して自分の優しく包み込むその強い意志を誰かに同調させようとすることもないのである。彼女の絵から溢れるその優しさは「あなたはあなたのままでいい」という強いメッセージが込められていると彼は感じていたのだ。

 

自動執筆的日記

 ここに書かれているのは日記と言えるほど日記ではなく、至って妄想的な日記であるが、その妄想すらも内包させるために書かれる自動執筆が行われる空間になっている。これは彼自身が生み出した空間であり、ここで何か出会いを求めるとか、つながりを求めるというよりは、ただたんに自分の空間を文字によって生み出すための訓練としての空間であり、その訓練を公開することに意味があると考えているのだ。完全に乖離した人格を活かす、その受け皿の作り方を公開しているだけであり、ここに書かれているものには何の意味もない。ただ空間が生まれているに過ぎない。その訓練。なぜその訓練は必要か。受け入れ先を自ら作っているに過ぎない。自らその施設を生み出し、その施設はいかにも伸びやかで、しなやかであり、自由な創造性に富んでいたのである。その空間こそが彼の求めている空間であり、彼はその空間を現実で作ることよりもまずはこの仮想空間として生み出すことで、生きるための術、そして知恵を身につけ、これを伝えようとしているのかもしれない。この方法に意味があるとかないとかそういう次元を語るのではない。しかしその次元とを行き来することが重要なのである。何か違う空間、層が同時多発的に存在し続けている、この現実の脆さを知ることが重要なのである。この空間についてと、同時多発的に生み出される層への瞬間移動の実態を今この瞬間描き続けるのだ。しかしこの瞬間というものを捉えることはできず、これは追いかけている状態なのか、追いかけられている状態なのかをどちらかに区別することなどできないのである。しかし、この時間に生み出された。この決められた文字数の中で生み出される空間にこそ内面の隠された衝動を発見するために必要な要素であるようなのだ。

 

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もう少し普通に(笑)日記的に書く場所作りたいなと思ったのだけどTwitterでいいかと思った。

 

ここでは文字を使って自分の空間を作るということをやっているので、もう少し事実的にあったこと、やったことを書きたいなと思ったのでした。

 

あるものでどんどんやろー。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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