創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171121

雑貨屋さん

 手先が冷える。部屋の中は寒いと感じるが太陽が入り込んでくる場所は暖かいと感じられる。「冬になると作りたくてたまらなくなりますよね」と言っていたのはキキさんだった。キキさんは雑貨屋を営んでおり、店内には手芸用の道具や糸など、キキさんのセレクトで並んでいる。どこか心温まるようなそんな素材たちがちりばめられている。冬になると何か暖かい身に纏うようなものを作りたくなるのは人間の本能なのかもしれないとふと僕は思った。日本で言えば夏の間は太陽が熱を発しているため、服はただ裸体ではいけないという規制のようなものでただ隠すための布に思えてしまうことがあるのだが、一転冬になるとその布たちは生きていくための必需品に様変わりする。熱を内側から発せられる熱を保つために衣服をまとい、外の寒さをしのぐ。熱を発するための食事というのもやはり重要であるのだが、衣服はそれを外部から守るための皮膚のような役割なのかもしれなかった。その皮膚はまったく偽りの皮膚であるようなのだが、とは言えその皮膚をまとうことでどこかその人自身の内面を現す役割をも買って出ているように思えてくる。彼は近頃衣服に着目するようになってきているのはやはり寒さから身を守るためでもあるのだが、そこで纏われる布の役割に興味関心を持ち始めているのである。生きていくための布というのがこれからの時期には必要で切っても切り離せない関係であるように思えるのである。ただ使い捨てのファストファッションではなく、そういうものも取り入れつつもどこか長く使い続けた先にある、その衣服の持つ味わいというかそういうツギハギ自体になにか生命のようなものを感じている。陳列された商品からその味わいを見つけ出すことは難しいのだが、すでに人が身につけたその衣服からは何かの漂いのような、気配を感じることが出来るのである。何もお洒落であるとかそういう着こなしの部分を問うているのではなく、何か漂いのようなものを感じる人はその身につけている衣服に何か面白みのようなものを感じているのかもしれなかった。

 

古着屋さん

 家の近くに古着屋さんが出来たので訪れてみた。なぜかトントン拍子で開業することになったようで、まだ準備しながら進めているらしい。開店時間も閉店時間も明確な決まりはない。お昼過ぎに開けて、日が暮れたらシャッターを閉め始める。僕が始めて訪れた時もシャッターは半分しまっていたが、のぞいたら快く店内へと案内をしてくれた。店主の人柄や服へのこだわりにどこか惹かれるところがあり、2日連続で訪れて話を聞いていたのだった。50年代、60年代などの衣服を扱いながら、男女兼用で着こなせるようなものを主に店主の目で集めている。時に奇抜な色や柄の服なども扱いながら、普段使いもできる衣服も揃っていて、ただ大量にかき集められた古着屋とは違った装いを感じたのだ。古着屋のイメージはとにかく大量に安いものが、それに同じようなものが置いてある印象だったのだが、このお店はそうではなく、多くある古着の中から店主の目でセレクトされているのを感じさせるのである。ジーンズなども好きなようだ。「ビンテージのジーンズはリメイクするもんじゃない」と、古くからの風習のようなものを大切にする人もいるそうだが店主はそうではなく、自分の気に入った形に自ら変化させる。大量にある場合は外部にお願いしてそのお店専用のジーンズの形に変化させてしまう、魔法使いのような技も持ち合わせる。そのままの良さを大切にしつつも、そのお店にいる人の感性を大切にしながら作られるこのリメイクされたジーンズというのも何か興味を持たせてくれる要因だった。僕はその中でいくつか気になるものがあったのだが、コートを一着いただくことにした。他にもセーターなどが気になった。「また何日かすると新しいものが入るのでそれ見てもらえると楽しいですよ」と教えてくれた。「なんか、うちの父が着ても似合いそうですね」と、ふと僕は店主に伝えていたのだが「そうなんですよね。ちょうどそうの世代の人たちが着こなしていたような服なのできっと似合うと思いますよ」と言ってくれた。その時にふと父のファッションについて思い浮かべたのだが、親のファッションだとかセンスのようなものはやはりずっと見ているし、少なからず影響を受けているのだと思えてくる。特に父のファッションはどこかこだわりのようなものを感じさせ、その独特の色合いや、組み合わせなどが今思い返せばセンスのある、少し大人の身の丈にあったいい着こなしをしていたように思えた。僕は家族のそういったセンスなどを見抜くことができずにいたが、いざ思い返せば、どこかこだわりのあるものに日々触れながら生きていたのだと思うとなんだか嬉しさが込み上げてきたのだ。僕自身まったくこだわりのない人間だと思い込んでいたが、それは自らが自らを否定しているだけであり、振り返ってみれば自分自身の好きであるとか、好みのようなものはしっかりと育まれているのだと感じたのだ。いつも同じところに行き着いてしまうのだが、結局何もかもがどこかで否定し始めたことの延長線上にあり、その否定すらもやめて、ただ素直にその起こっていた出来事を思い返していけばきっとそこに自分自身の才能、センスのようなものが隠されているのではないか。それは確かに多くの人とは違うものなのかもしれないが、そこに対して好き嫌いを言われることを恐れているのはなんら無駄な時間であると思えてくるのである。それに、その「何か好き」「何か嫌い」といったところが感覚的に受け取りやすい部分でもあるのだから、生理的なその反応にこちらもあちらも反応し合っていても仕方のないことなのである。それであるならその自らの中にある、感覚を育み続けることの方が生きている間、きっと有意義なものであり、その人の目を恐れていても仕方のないことである。大切なのは何もかもを自分自身として、それも含めて人と出会うことである。何か喜びを分かち合えるような、理解者と出会うことである。その出会いは突然なのだ。道ですれ違う。そういう出会い。目があったその瞬間の出会いである。だからこそ何かをひた隠していても仕方ないのである。何もかもを表出させそれを元に出会うことこそが有意義であるように思えているようだ。

 

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 今日はこれから絵の額装をしに新橋へ。

そのあとはお友達のコンサート。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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