創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171123

布の役割

 織りたての綿素材の布と元々織って置いていたウール素材の布を洗いにかける。縮絨という作業で、糸と糸がしっかり絡み合い、洗った後の風合いはすっかり変化する。洗って脱水までして、その後アイロンをかけるのだが、布自体が柔らかくなる。その布に触れているとやっぱり縮絨までしっかりやってあげないといけないと思ったりする。織ったままの布が増えて来ているのでまた太陽が出た日にこの作業をしようと考えた。次に織るのはウールの縦糸で作る予定。ここ最近、作るなら必要な布を作りたいと考えるのだが、何を持って必要と言えるのだろうかと思考する。必要に迫られない限り人は自分で布を作ろうなんて思わないのかもしれない。なぜ身に纏うための布が必要であるのだろうか。夏で言うなら、太陽が外的に体を暑過ぎるくらいに温めてくれるのだから、極端に言えば陰部を隠す程度の役割があれば十分なのかもしれない。しかしこれからの季節には衣服、身に纏うための布というのは生きる上で重要になると思われるのだ。もちろん食事だとかで内側から温める行為も必要であるし、そもそもの自家発電的な力が人間の能力として弱まっているのかもしれないということもある。生きるための布とはなんだろう。体を温めるための布。冬になるにつれ、衣服が今の人間には重要な役割を果たしているように思われるのだから、その生きるために身につける布ならば作る価値があるのかもしれないと思えて来る。僕は、なぜ作るのだとか、なぜそれをやるのかだとかそういう意味を考え始めてしまう。腑に落ちなければ行動に起こすことが出来ない。結局なんだかんだと言いながら、自分の精神安定のために手を動かしているに過ぎないのではないかと考えてしまったりもする。それでもそうやって布を自給できる、何かを生み出せるといういうことが、生きていく上でどれだけ自信になるかというのは重要なことであるように思われるのだ。

 

思考

 必要であるとか必要でないとかそういう思考を未だに彼は持っているようで、それはそれで構わなかった。特に私が困ることもないし、正すこともない。ただ受容するのみであり、強制する必要など何もありはしないのだ。必要なのはスペースであり、その考えを打ち明ける、何もかもを語る、語り部の役割を披露する場なのであり、これを現実に求め始めればそれが受け入れられないだとか、聞き入れてもらえないなど、ああだこうだとまた不満を言いかねないのだから、せめてこの場くらいは自由に、思考を巡らせる場にすればよいのである。結局、何か必要なものなどどこにも存在していないのかもしれなかった。必要なものは全て自然界にあり、それ自体こそが必要でそこにあるのだから、人間の作るものなんて蛇足にすぎない。これは断定することはできない。ただの見解であり、必要なものを作ると言いながら、不要なものを延々と生み出し続けると言ったその自己矛盾の中で起こる葛藤なのである。そんな思考をしているなら、何もかもが不要で、何もない、私もないというそういう世界の話になって来るし、私も彼も、まったく同一人物であると同じ生物である、微粒子であるということになるのだが、その感覚を否定する必要もない。ただその感覚を現実にまた落とし込むことで、本当に必要なものは何かが見えてくるのであり、それは見えるというよりは、感じていることに等しい。私、すなわち彼自身が望む願望を否定することなどできないし、それが沸き起こるものなのであれば、その楽しみもまた理解して、存分に遊び尽くせば良いのである。重要なのは、それは自分自身に対する慈善活動及び社会活動であり、どこかに貧しい人がいるのだから贅沢してはいけませんなんて、そういう決めつけをすることが彼にとっては苦痛で仕方ないのである。果たしてそれは本当に貧しいのだろうか?貧しいと決めつけ、その服装が、装いが、貧乏であるなんて誰が決めつけることなど出来るのだろうか。あの国は貧しいとか、貧困であるとか、発展途上であるとか、どうしてそんなことが言えるのだろうか。彼はそうやってまた作られている言語に対して疑問を抱き、その回路に入ってはまた、結局何も必要がないということに至るのだから、仕方のないことなのだ。現状に皆満足しているのだから、いざ変わるとなればその状態を手放さないことだって多々あるのである。その変化に身を委ねることが出来るかどうかであるし、抗わずにその場に佇み、そして流され続けることが出来るかどうかなのである。

 

ご飯の会話

 「あなたは良くやっている。毎日文章を書いて、絵を描いて、歌って、布を作って。そうやってやってこれているのは凄いことだ。途中折れそうになることもあるだろうし、もちろん鬱にはなるけれど、諦めることもなく、ずっとずっとやり続けているのは本当に凄いことだ」と、みーさんに食事中そして食後に渡って話していた際に言ってもらった。その言葉を聞いて少し涙腺が緩んだ。身近にいる人に行動を受容してもらうことほど強いものはない。もちろん僕のことを何もかもを理解できないだろうと思うし、険悪な雰囲気になることだってあるのだが、それでもその言葉がとても力強く受け取れ、みーさんの詩人としての力を垣間見たのである。みーさんが以前、月光荘の画室で展示をしていた時に絵のキャプションに詩が添えられていた。絵はもちろんなのだが、みーさんの持つ言葉の美しさや、一語一語に込められるその熱量のようなものに、僕は驚いていたことを思い出していた。「詩人、芸術家というのはいつまでたっても子供のままでいる人のことだ」というが、みーさんがまさにそうであり、もちろん大人としての振る舞いをしっかりと持ち合わせているのだが、その内側にあるのは、ちょっとした遊び心や、人のことを思いやる優しい気持ちであり、そういう優しさに僕は幾度となく救われているのだ。なんせ昨日は"いい夫婦の日"であったし、何か良い話し合いができたのではないかと改めて思ったりした。晩御飯というのはそういう対話が行われることが多い。時に映画を見たり、最近はおでんくんを見ることがなぜか多かったのだが、一緒にご飯を食べるその時間が、ぼくとみーさんの中では大事な二人の時間であるのかもしれないと思えた。

 

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今日は糸の整経をする予定。

最近絵は鉛筆だけで描いてる。

B6のやわらか濃いめ。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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