溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20171125

「決断」

 漢方を購入し、受け取りまでの間に時間があったので久しぶりにカフェに行く。駅前のエクセルシオール。鎌倉にカフェは沢山あるのだが、結局何か作業したり、本を読みたいとなるとチェーン店が一番居やすい気がしている。チェーン店といっても居心地が悪いわけではないし、むしろ快適に過ごすこともできる。夏はちょっと冷房が寒かったけれど、ちょっと上着を持っていけば解決できるわけであるし。書き物を終えてから、先日みーさんが買っていた友達の本を読む。タイトルは「決断」。夫婦で執筆していて、二人の言葉が交互に書かれている。まったく違う語り口で描かれる世界が面白かった。友達ということもあるからか感情移入しやすかったのかもしれない。何度も目が潤んでしまった。帰宅するとみーさんの新作の絵が完成していた。「重なり」という作品のようだ。僕はみーさんの作品の進み具合によって家を出るようにしている。特に家を空けてほしいと言われるわけではないのだが、そろそろ一人で集中したい時期かもしれないみたいなことはこちらから察知して出かける。出かけるときは大抵、近くの図書館とか、カフェが多いのだが。僕はまた鉛筆で絵を描くがどうも行き詰まっているような感覚があり、何に行き詰まっているのかなんて全くもってわからないのだが、どうしてもなにか絵とは言えないような絵が描かれてしまう。それはそれでいいと思える方がいいのだろうが、厳しく評価し始めるので、一体何を基準に評価し始めているのだろうかと疑問に思う。気を取り直して、織り始める。織り始めると言ってもまずは経糸の整経からである。僕のもっとも苦手な作業であり、まったく慣れることはない。不器用なのか、せっかちなのか、めんどくさがりなのか。どちらにせよ、よく経糸を切ってしまったり、抜けてしまったりする。それもそれでいい味が出るので良しとすることが出来たらいいのだが、その瞬間は「また失敗した」とこれまた何を基準に成功とか失敗とか言っているのかと思ってしまうようなことを考え始める。経糸が張れて、今日はここまでにしようと思ったが織り始めるとかなり集中して織ることができて、そのまま首に巻けるくらいの長さのものが完成する。ウールの素材で作りたかったことや、原毛を入れ込んだり、そういうことをしたいと思っていたので集中できたように感じた。どうしても綿の素材だと綿だけでとかそんな風に何か決めつけてしまうところがあるが、素材的にウールの素材や冬によく使われる素材の方が僕は好きなのかもしれない。もこもこ感が良いのかもしれないし、暖かそうに感じられるのも良いのかもしれない。寒くなってきて布を作る意欲が再浮上してきていて、こうやって季節に合わせて作るのもよいのかもしれないと考えたりする。自分自身の時期、波長に合わせてやりたことも変わってくるように季節によっても変わってくる。体が冷える時期になってきているので、布に触れることはある意味で本能的であるように思える。あとはやろうと思っていた紙の貼り付け。サイズが小さくなってしまった紙を貼り付けて、そこに絵を描く用にする。しばらくやろうと思いながら出来ていなかったことが出来た。

 

瞑想

 一昨日から夜に電気を消し、キャンドルを灯して瞑想することにはまっている。薄目でキャンドルを見ていると、炎が揺らいで、体全体も揺らいでいるようなそんな感覚になり始める。体も温まるし、その後眠りにもつきやすい。その影響からか見る夢がいつも以上にディープになってきているような感覚もあり、未だにそう言った恐怖のようなもの、それを無意識に押し込めているのだと思えてくる。僕たちは多くの内在されているその無意識を見て見ぬ振りをして生きており、それは開けてはならぬもののように思われがちだが、その世界にこそ思い切ってダイブするべきだと思うのだ。もちろん気分が良いものばかりではない、それが苦しい部分を見ることにはなるときもあるが、それも含めての創造活動であるのだと思えば、産みの苦しみだと思うことができる。とは言え、これは調子の良い時の話であり、多分鬱の症状が色濃く出るときは、この苦しみに完全に飲み込まれてしまう状況であり、それはもう避けることもできないのだなと半ば諦めて、抗うことをやめてしまった自分がいる。それをなくそうとするでもなく、ただ内在させ、そのままを創造活動に転換して行く。その試みはうまくいっているようにも思えて、多分生き残る道はこの道しかないのかもしれないなんて思ったりもする。とはいえ、選択肢は無限にあるとか、僕たちは何でも選び取ることができるなんてそんな考え方もあるが、僕にはあまり当てはまらないように思える。その無意識にダイブし続けようとする限り、多分だがもう道はある程度決まっていて、その道を歩みながらどうやって社会との関わりを自らの創造活動によって生み出して行くかが重要であるように思うのだ。既存の社会とか、学校とか、会社などに混ざり合うためのコミュニケーションではなく、徹底した自分を生かすコミュニケーションである。そのために何度も自分自身を殺しているのかもしれない。

 

思考の経過と新たな回路

 どうしてこんなことを書いているのか今の私からしたらまったくわからない。ただそう考えているのかもしれないということは確かだ。これが絶対だというやつは信用できない。今のところはなのだ。今のところでしか語ることができない。そのことを責任を持てだとか、ああだこうだということも出来ないのだと思えてくる。何に対して言っているのかもよくわからないのが私の現状なのである。今、当初の意識とはまた違った意識に私は身を置いているし、聞こえてくるのは配達に来たバイクの音、または道を走り抜けて行く車の音だったりするのだ。そうやって様々な思考回路を辿って行くことがここに書き続けている理由である。その証明というか、ただその経過を書き記している。行動している最中に起こるその思考の行き先、新たな回路、その発見、そしてどこまで辿り続けるか。その連続を行なっている。止まったって構わない。そうするとまた新たな回路から言葉は流れ出て、またここに刻まれるのだからそれで良い。もう街は動き出しているし、昨夜瞑想をしているときはすっかり様子は変わってしまっている。私はその時と全く同じ場所にいるつもりだが、その風景は一変している。犬が遠吠えするだとか、鳥が囀るだとか、そういう声が今は鳴り響くし、車は走る、人の声は乱立し、まったく違う世界がこの家に広がっている。

 

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今日はみーさんのお姉さん家族と父ちゃん母ちゃんでお寿司食べに行く。

その後、家の内装、空間などに関して溝井企画でご相談に乗る予定。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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