溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20171126

趣味と仕事の境目

 「趣味は何?」と聞かれて返答に困ってしまった。今思えば散歩と答えそうだが、その時は絞り出して読書と答えていた。散歩も読書も結局、生きて行く上での一つの行動であり、それ自体も仕事の一環だなんて思っている自分がいるようだ。僕は仕事というものを切り離すことが出来ないのかもしれない。散歩することで得られる発見や、歩くという行動、また読書をして得た知識や、自ら本の世界を空間として捉え、その世界に入り込むことが趣味として片付けてしまうのは惜しいような気がしてならない。趣味と言ってしまうことで、どうしてもそれは余暇的なものと言っているような気がしてしまい、自分自身ではそんなつもりはないのだが、まあ、それでも趣味と言ってしまうことも出来ることなのかもしれない。趣味でやっていると言っても、それはもうすでに自分自身の仕事になり得るし、何か本業のようなものがあるならそこに取り入れ活かす事もできる。職業は何かと言われれば結局自分自身が職業なのであり、溝井孝司という人間自体を思考させ、行動させることがひとつの仕事であるようにも思えるのである。だからこそ、何もかもがひとつの仕事として捉えることができるし、24時間自分自身に、もうこれは死ぬまでずっと勤務している状態であり、そうであるならブラック企業と言われても仕方のないことである。しかし、これは自らが望んでその企業の一員として仕事をしている状態であり、いたって無自覚に働き続けているのかもしれない。そうなると副業なんてものもなく、全てが本業になり得るような気さえしてくる。あくまで僕という人間を実験的に捉えているのだから、研究員である可能性もある。それもまた職業なのかもしれないが、その仕事は多岐に渡るのだ。それが当たり前であるのだから、何かの職種に絞ってその仕事を遂行するということが苦手なのは当然なのかもしれなかった。こんなことを考え始めるのもまた、投げかけられた言葉を用いてであり、その問いから僕はまた自らの内面にある、その行動自体を言語化しようと勤めるのである。これも趣味というよりは仕事のようなものであるし、何もかもがどこか遠い感覚として委託され、それを請け負い、ただ毎日この任務を遂行しようと努めているだけに過ぎなかった。

 

服の量

 洗濯物を干す。風が強く洗濯物が飛びそうになる。風は冷たい。北風だろうか。手がかじかむ。一時すっかり服を断捨離して着る服が少なくなってしまっていたのだが「いい服あったらください」なんて言っていたら、みーさんの実家からジャケットやパンツ、コートなど数点いただいた。先日古着屋でも一着コートをゲットできたのでかなり潤ってきてありがたい。聞いてみると今は着ていない、こだわっていた服が出てきたり、お気に入りで使っていた物が出てくる事がある。これは本当に家の幸だ。テラードジャケットはみーさんのおじいちゃんの代から使われていたものであるが、しっかりとした織りの生地で着心地抜群。みーさんの実家に帰ると毎回たくさんの衣服が出てくるので気に入ったものはありがたく頂戴して帰るのである。服に関して考えると、無理に新品を買わなくて良いなと思える。むしろ誰かが着ていた服の方がその人の思考というか、そう言う部分に興味が唆られていくことがある。または作り手に興味を持ってる、その服の先にいるデザイナーに興味を持っていることが服を買うポイントなのではないかと思ったりもする。僕とみーさんの間では自分が本当にいいと思えたものはお金を出し惜しみせず買うというのが一家のルールのようなものになっている。逆に本当にいいと思えなかったものに関しては中途半端に買わないと言った事も決まりごとのようになっている。それによって変に物が増えてしまう事もないし、自分の持つべき量をコントロールできるので僕はこの考え方を積極的に取り入れている。一時は服をかなりの量減らしていたが、僕はよく服が破けてしまったりするので、気持ち余裕のあるくらいの分量を持っていると安心して生活ができるのだ。これは多過ぎてもいけないし、少な過ぎてもいけない。自分で量を知ることが重要であるなと感じる。

 

所有

 物を持つことに関して無思考になってはいけないと感じる。量を知ることだし、サイズ感を知る事も重要である気がしている。身軽に動けなくなってしまうのならそれは多すぎると言うことになる。多分一番大きい物は家ということになるのだろうが、僕は家を買おうと思うことはもしかしたらこれからも出来ないのかもしれない。条件などもあると思うが、その大きなものを所有することが僕には出来ないと感じる。きっと維持管理できないだろうし、そんな無責任なことをしてはいけないと感じるのだ。そもそも土地を所有してはいけないと言っている。土地を所有するならばオープンなものにしたいとすら感じている。人が集える場所である。出入りができる場所である。もはや所有ではない。とはいえ、僕は多くの人と一つ屋根の下で暮らしていく自信はない。家族という小さな単位でさえ人が増えてくると僕の許容範囲を超えてしまう恐怖に襲われる。僕一人でも僕は抱えきれないとすら思ってしまうのだ。と言いつつも、どこか深い部分では家族のようにつながりあっていると感じているのだが、それはそれぞれが独自の家、家族というものを築いているのが実際にあった上での話であるのかもしれない。最近なぜかこういった言葉が流れ出てくるのだが、これを彼は精査し判別しようとする。それが正しいであるとか間違っているとかそういうことを判断しようとしているのだが、そういうことは一旦置いておいてこれは僕自身として述べている見解である。僕と彼の存在が今は渦巻いており、そこで私という存在もまた浮上してくる。どれも確かに内在してる人格たちなのである。この者たちが顕著に現れるようになっているのはやはり書くことによってであり、この書くことによってその存在を受け入れる、受容されるスペースとして行動をし、ただ文字を流し、刻み込んでいるのである。所有についての問題は、その人間としての欲そのものであり、その部分ついてもっと触れていかなくてはいけないのだと思える。

 

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家と服は同じ役割だなと思える。

しかし、自分自身の手で扱える範囲を超えてはいけないような気がしてる。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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