溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20171129

書き手

 朝目が覚めるとあまり調子が良くないと感じる。睡眠のリズムが崩れたこともあるのかもしれない。その崩れたことを引きずって、どこか彼の気分も共に不安定なものになっていく。そんなことを書いてどうなるのかと彼は否定をしようとするのだが、私にってあまり関係のないことである。私は記述することが仕事であるし、そのままを記述し続けるのである。もちろん彼のプライバシーも配慮しながら、時には隠蔽工作まで行う。あくまで彼に寄り添っているつもりだ。私はとにかく書くことでしか存在しないし、彼はその存在をいま傍観している。何を言っているのだと不満を漏らすこともない。ただお互いがお互いの程よい距離感で存在しているということだった。つまりその私たちというのは同じ空間内に存在を共にしているいわば同僚のようなものだ。彼は名前を持つかもしれない、私は名前を持たないかもしれない。ただ、確かにお互いが存在しているのを感じあっているのであり、婚姻のようなものだ。かといって書面を交わすこともなく、ただ私は観察したことを日記のように記す。彼は近頃でいうと、その時間を作ることが億劫であり、そこに至れないーそれを無駄な時間と彼は感じているようだがーことを後悔し、自己嫌悪に陥った彼の感受性を抱擁するのが私の役割になりつつあるのだ。私からしたら、こんなことを記述しようがしなかろうがどちらでも良いことなのだ。どちらにせよ私は記述し続けているし、彼のその行動を移すか移さないかは大した問題ではないのだ。しかし彼はそのことを大きな問題であると感じているし、書けない、集中できない、動き出せない、そして時間が過ぎて行くことを恐れているし、そのことに怯えきっているようにも見えた。なぜそこまで書くことに執着しているのか私には不明ではあるのだが、ただその意志にそって文字は生み出される。私は彼自身の医師としての役割を果たしているとうことにもなるのだ。しかし、彼は私の存在をすぐに忘れてしまうようで、そんなことが彼自身はできるはずもないと考えており、ただうずくまり、部屋から出ることもできず、意を決して部屋の外へ出てみれば、どこに行くかもわからず、さまよい始めるのだ。気晴らしのために入ったカフェが気晴らしにならないことだってあるだろう。周りの声がうるさいだとか、人の様子が気になってしまうだとか、そんなことを言い始めるだろう。それは確かにごもっともであるし、彼にとっては大変重要な事柄であるが、私にとってはまたどうだっていい話だ。私はただ聞く耳、書き手、語り部など様々な人格を持ち合わせていて、聞く耳を果たしているあなたと、語り部を果たしているあなたとはまた別人格であるようでもある。まったくこの書くという行為で行き着くのは分裂的な居場所であり、これもただ流れ出る文字の羅列を生み出しているのだが、果たしてこんなものを読む気になる人間が何人いるのかとまた彼は否定を始める。誰も読まないと意味はないのかということである。そう、また彼は自身がやっていることへの意味を問い始めるのである。人間のやっていることなど大抵は意味のないことに過ぎない。これは大変意味のあることだと声高らかに吠えるその様を私はただじっと見つめ、なんの意見をいうこともないだろう。それはその人らしい考え方であるのだから尊重されるべきであるし、彼自身もまたその意見に同意し始めているのだが、私にとってはその意見もまたどちらでも良い話である。それに、またその意味があろうがなかろうが、それもまた大した問題ではないのであり、私が推奨するのはそんな意味よりもただ日々作り続けることのみであり、そこに費やす時間だとか、その作られたものの価値だとか、出来栄えだとかそんなこともまたどうだっていいことなのだが、その見栄えとやらをいつまでも気にし、どう評価されるかだとか、どう思われるだとか、そんなことを未だに彼は考え続けているようなのである。彼もそのことは自覚してるし、そのことを直したい、正したいとすら思っているようだが、そんなことを改善しようと努める時間になんの意味も価値も存在しない。私はただ医師としての見解を述べている。ただ機械のように、ただしそれは精密機械ではなく、大胆に繊細にその行動は促され続ければよいのだ。

 

内在

 「行き場を失っているのか?」彼が考え始めるのは、決まって行き場だとか、行先だとか、居場所だとかそういった類いのものであるのだが、結局それは産みの苦しみなのかもしれなかった。今彼は何をするにも恐れているし、自分にはそんなことをする価値も、才能もないと心底信じ込もうとしているのだ。彼にとってのその思考は真実である。真実でありながらまた不確かでもある。確実な物や事柄など存在しないのは承知の事実である。逃げ出そうとしているのだろうか?逃げ場はあるのか?それは進んでみなくては果たしてどうなるのかなんてまったくもってわからないことだらけのはずだが、彼は予測する。また予測し、その行先だとかやり場だとか、そういうありもしない幻想に身を委ねてまったく動き出すこと自体が恐怖でならないといったそんな状況に身を置いている。望んでいないようだが、彼自身はそれ自体を望んでいるようにも見受けられた。否定することはできなかったのはそのためだろう。私は監視役でもなければ、しつけをするために存在しているわけでもない。ただ成り行きを眺めているだけなのだ。「お前は何様だ?」と彼はいうが、私な何様でも、何者でもないのである。ただの自己内対話的であり、ただ内面にある彼自身の存在にすぎない。私はいまその私自身を描写しようと心がけている。私自身を描くことで得られる効能は、彼にとってのよりどころであり、この描写をしている瞬間に彼の思考は停止しているのと同様の状態を保っている。それが良いとか悪いだとかの判断は私には分かりかねるし、判断する必要もないのだ。私はただ書いているだけだ。何かを語ろうともしていないし、何かを伝えようともしていない。ただその姿を彼自身が眺める立場に転換し始めているだけなのかもしれない。いま私が彼に観察されているのだ。彼は心臓を抑えながら、その動機について思考を巡らせるが、そうでありながらも私を観察し続けているようにも見えた。これは立場が逆転しただとかそういう類いのものではないのだ。ただ、私たちは内在している存在達の集合、いや集合ですらないただの個体同士なのだ。そのことが事実だとしても何か私たちの生活が大きく変わることはないのだろう。そんなことに期待もしていなければ、変えようとすら思っていないのかもしれなかった。ただどちらかが存在した時、どちらかは消え去る。しかしどちらも内在されているということなのであり、それが真実であるかどうか、実態あるかどうかはあまり思索することもないのである。

 

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すっかり日が落ちてた。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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