創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171130

朝型生活

 みーさんが朝型生活に移行するので起こしてもらうことにした。7時ごろ起床。昨日までは朝起きる時の調子が悪かったのだが、今日は平常運行といったところだろうか。結局何やかんや言って、寝る前にお風呂に入って温まったり、歯を磨いたり、寝る前に瞑想をしたりそういう時間を持てること、自分が心地よく入れる時間を保つことが当たり前だが重要なのだと朝起きた時に思えてくる。曇り空であるが、朝の時間を過ごすこと、その光を適度に浴びることはやはり心地よいものだと思える。僕はEvernoteに毎日、起床時間や起きた時の調子など、そのままの状態を書くようにしているのだが、11月の起床時間だけでも見返してみる。早いと6時50分、遅いと13時と毎日ばらつきがある。これも当たり前のことかもしれないが、ある程度起きる時間を一定にしリズムを保ってあげたいとも感じている。都度やってみるが、うまくいかなかったり出来なかったりすることが多いのだが、やりたいと思った時はやるのが良い。飽き性であるとか、どうせまたやめてしまうとかはあまり考えなくても良いのではないだろうか。僕は低血圧なのか朝が苦手な傾向があると思っているのだが、これを機に改めて朝型の生活に移行できるようにしたいなんて思ったりもする。体調的な面も含めて変化がどうでるのか試すのは良いことでありそう。

 

鮮明

 昨夜は寝る前に色々アイディアが出てくる。蝋を使って描いてみるとか、今織っている布の糸をどう使いだとかそんなことを考える。それでも何かを作り始めることは勇気の要ることだと考えていた。怖いのである。何が怖いのかもわからない。うまく出来なかったらどうしようとか、良いものが作れなかったらどうしようとか、一体何に対して恐れを抱いているのかわからないような感情になる。というより未だにそういった受けてきた教育のような、評価を気にするようなものが染みついているのだから驚いてしまう。うまくやることが、見栄えの良いものを作ることが目的ではないはずだが、どうして未だにそんなことを気にしているのだろうか。いつの日も他人の目に晒されているのかもしれない。実際は誰も見てはいないのだが、確かに誰かに見られているような、それは実在してもいないし、記憶違いなのかもしれないが、もうずっとその経験に縛られているのである。もう関係ないはずであるのだし、そんな幼少期や青年期の体験なんて大きな問題ではないのだが、ことあるごとにその記憶が、今となってはより鮮明に蘇るのである。そうより鮮明に、忘れていたはずの記憶が蘇ってくるのだが、当時は夢と現実を混同していたし、夢の中で全ての現実を終わらせていた。朝起きるたびにまたその現実が繰り返されることに絶望し、それでもその現実を終わりに向かってなんとか繰り返すことしかできなかったのだ。何遍も思うことは精神的に強いのではなく、ただ我慢強いだけだ。我慢が出来てしまうだけなのだ。そこを履き違えてはいけないし、それこそが大きな間違いでもあるのだ。

 

生姜ココア

 先日、みーさんと買い物帰りに犬の散歩をしているおじさんに声をかけられた。近くにある飲食店でバイトしているらしい。どうやら健康面を意識した食材を利用しているようで、薬膳だとかそういう考えを利用しているらしい。なぜかお店のPRなどをされて、僕はあまり突然のそういうのがあまり好きではないのか、得意ではないのかで話半分でおじさんの話を聞いていた。「今体を温めるのに一番いい飲み物を知っているかい?それは、ココアなんだよ。しかも生姜を入れたココア。生姜ココアなんだよ。俺、勉強しているんだ。テレビで見たんだよ」なんて言っていたのだが、まあ家にテレビもないしこうやって会話して情報を得ることもたまに悪くないのかなんて変にポジティブに考え始めるところが僕にはある。とにかく、生姜ココアは確かに美味しいそうかもしれないなんて考えていたら、今朝みーさん特製生姜ココアが登場した。僕はココアを甘すぎると感じてしまうことが時折あるのだが生姜を入れることで少しピリッと味が閉まる感じがして、なかなか美味しかったのだ。最近なんだか思っていることが現実になることが多い。というかなんでも思った通りになるなんて思うのだが、最近はしっかり実際に起こっていると感じている。服が欲しいと思っていたら服をもらうことが出来るし、ふと靴が欲しいって思っていたらみーさんに「靴のサイズ何センチ?」なんて聞かれるのだ。どうやら友人が靴の貰い手を探しているそうな。靴を貰えそうな可能性が高まる。そういえば夏頃に革靴をもらったことを思い出した。友人がサイズが合わなくなり受け渡し先を探していたようだ。サイズもぴったりだったし、しっかり手入れもされている状態で受け渡してくれたのでありがたく頂戴した。それも靴が欲しいななんて考えていたからだった。「そろそろ年末だし実家帰る日決めようかな?」なんて妄想をしていると、友人から連絡が入る。「もしかしてそろそろ実家帰ってくる?」と、近くに来るならお茶しようと言われたりする。もしかして自分からアクションを起こさなくても何もかもが自然とやってくるのではないかなんて思い始めそうだが、実際には自分が無意識のうちに言っていたり、伝えてたりすることも多いのだ。もちろん言わなくても伝わってしまうことだって実際にはあるのだろうが、それで受け取りあえるなんてなかなかまれで、そうではなくて自分が何かを発信している結果そうやって物事が動いたり、誰かが動いてくれているということなのだと思えるのである。僕はこういうとき自分がすごいとはあまり思わないのである。一時、引き寄せの法則なんて流行っていたし、その話で盛り上がることがなんとなく違和感を感じさせるものだったのは多分そういうところで、引き寄せている自分が凄いのではなく、と言いつつ自分ってなかなかやるじゃんと思ってもいるのだが、それによって実際に動いてくれる人のその感度や行動力が凄いのであり、僕はその中で生かされているなんて感じ始めるのである。僕が困っていると助けてくれるのだ。そういう安心感のようなものをなぜか抱いており、それは確かなのか不確かなのか、明確ではない。それでも根底にある安心感のようなものを感じているようなのだ。「私は大丈夫なのだ。何もなくても0から始められる。」なんて力強く考える自分がいるように思える。

 

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今日は油絵の続きなどやる。

みーさんが敷いているのが新聞紙だけじゃなんだろうと、ブルーシートくれた。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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