創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171202

気分

 気分が大きく落ち込み、ようやく今日起きたら少し戻ってきたような感覚がある。日記を読み返すと11月17日ごろから気分が落ち込み始めているようだった。大きく落ち込むのは2、3日程度が多いように思う。最後の膿み出しのようなものなのだろうか。限界がきて、結局それを身近にいるみーさんにああだこうだと難癖つけて文句を言ってしまうのだが、それをきっかけに言葉がようやく出てくる感覚もあるのだ。その繰り返しである。なぜそうなるのだろうか。我慢しているからなのか。それとも些細な言葉に傷ついているのだろうか。それは今に始まったことでなく、周りにいた人の言動、行動、態度にいちいち傷ついてはふさぎ込むということを何度も繰り返していた。ずっと昔からのものでそれが治るものだと思っていたのだが、結局これは生まれ持っての性質のようなもので、治そうとするものでもないのかもしれなかった。ここでまた正しさとかそういうことが浮かび上がるのだが、ここで書いている言葉に論理性や正当性のようなものは求めない。ただ散文でありながら、確かにある内面の動きを記載しているだけなのだから、そこに正解だ、不正解だを求めても仕方ないし、その状態を否定するからこそ苦しみが生まれているのではないか?死にたいなどと誤認するのではないか?それよりも書くことが重要なのであり、それは作品ですらなく日々の運動の爪痕なのである。彼は言い出したらきりがない。というのは過去の傷を様々に引っ張り出してくるからであり、その傷がああだこうだと述べたところでそれ自体がなんら問題でもないのだから、彼の現状の苦しみが改善されることもないのである。そうかと思えばこの苦しみに打ち負けてはいけないと闘争本能が顕れる瞬間があったことも記憶しており、どちらも確かに苦しみながら内在しているのである。このことを躁鬱だと認識している。彼はその波の繰り返しを躁鬱と認識しており、果たしてその病名通りの病というのが存在しているのかといえば全く解明できない問題である。彼は調子がよくなり始めると、調子が良くなり始めた時点でそれは彼ではない彼にもうすり替えが始まるのだが、鬱は自ら創り上げているだとか言い始めるが、それを正解だとか不正解だとかでくくってはいけない。脳の誤作動であることもまた事実であり、確かに彼の思考回路はどんどんと悪い方向へ進む。それが悪いものである、いけないものであると言い出しているのもまた自分自身であるのだから、何を元に、一体誰を基準に診察をすべきなのだろうか。どちらにせよ今はその状態を通り越して、心中は穏やかさを取り戻しつづある。今現在はの話であるが、日常が戻ってくるといったような状態だ。どこか遠くへ旅に出て、まったく違う世界に、ギリギリの状態を味わい、そしてまた戻ってくるのである。そのギリギリの状態が実際にどれほど大した状態であるのか、世の中にはもっと苦しい人がいるのではないかと思索し始めるのだが、その瞬間はあまり問題のない話である。結局この一連の運動は創造的な活動でありながら生みの苦しみなのである。これをただ記載するのみだ。ただ記録することのみなのである。何も改善をしようとも、治そうともしない。ただその状態で生き抜くこと、逃げ切ることだけに集中すれば良いのである。彼の行なっている一連の行動は何かと向き合い、堂々と立ち向かう勇敢な戦士の様ではなく、泥まみれになりながらも生きるために、その無様な状態でも生きていいという許可を自ら出し続けることであり、それは勇敢でもなく、ただ逃げ惑っているだけなのだが、それが生きる上では十分すぎるほどの理由であるのかもしれなかった。生きる理由など逃げることしかないのである。その大きな波から、組織から、社会から、何もかもから逃げ惑うことなのである。狂気に満ちたその状態は一歩間違えれば銃殺や刺殺など形を変えて顕れる始める。時にそれは他人を傷つける場合もあり、しかし多くは自らを銃殺し刺殺するのだから、時に自らを縛り付けることで楽なろうなどと考えるのであり、果たしてその後の世界が楽なのか、自由なのか、何もかもから解放されるのかを完全に知ることなど出来ないのかもしれない。これは大変な賭け事でありながらも、その当たりかハズレかすらもわからない賭けに期待してしまう心理とはなんだろうか。

 

通過儀礼

 結局都度行われるこの通過儀礼的な苦しみは、新たな言語の創出であり、ただ描き続けるしかないと言い聞かせるしかないのである。どちらにせよ苦しいのだ。何もしなければそれもそれで発狂してしまいそうな状態が襲い掛かるのだから、そうであるならば、何か刻み付けるようにその痕跡を残し続けるしかないのである。日々生み出されるそれらの痕跡は、長い小説のようでありながら、日々彼が書き綴る日記のようなものであった。作品ですらなかった。ただありあわせの、そのつぎはぎの、コラージュの集合体であり、それが明確に何か意見や考えを示すものでもなく、ただ生き延びるための手法でしかなかった。どうしたって苦しみは生まれるのである。生み出しているのは自分自身の創造性であり、想像力なのである。善でも悪でもないのである。その思考、感情に善も悪も存在せず、意味や理由などもまた存在しないのである。そんなものにすがりつくから、わからぬものを排除しようとするのであり、ただその状態を漂い続けることでしか、逃げ道を発見することはできない。

 

掘り出し名人

 彼は掘り出し名人であり、どんな過去でもいとも簡単にああだこうだと理由をつけて掘り出すことができた。現在起きたその感情に、心中に対して、様々な意味をつけ、これはあの時と一緒だとか、あのころからずっと苦しんでいたとか、あの頃から、あの時のと、いつまでもそうやって掘り返していくのである。その作業は途方も無いのだろうか。しかしその作業をいつまでも繰り返そうともしているのであり、止めたところで止めることもできないのかもしれない。そんなことよりも前に進みましょうなんていうことがどうして出来るのだろうか?そんなことよりも大切なことが他にあるのだろうか?それこそが創造の種であり、自ら蒔いたその種をいかにして育てるか。それは自らが手を加えるのではなく、あくまでも自然物として、かといって自然を崇拝することもなく、あくまでも同列状の関係として存在し続けるのだ。

 

f:id:mizokoji:20171202115756j:plain

抜けた感覚あり。

作ったものをリスト化して量を把握できるようにしたいとふと思い立つ。

 

近くの、文房具屋さんに行こうかと思う。

 

--------------------------------------------------------

溝井孝司(Koji Mizoi)

連絡先:mizokoji@gmail.com

Twitterhttps://twitter.com/kojimizoi

Instagramhttps://www.instagram.com/kojimizoi/

--------------------------------------------------------

 

広告を非表示にする