創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171203

生命

 ここは多分小さい頃によく行った公園だった。ブランコだとか、ジャングルジムだとかがある。木登りしている子もいた。噴水がある。水が湧き出て入る。そこに落ちないようにと遊ぶ子もいれば、そのまま水の中に入ってしまう子もいる。柱に蔓が伝っていて、それが天井まで伸びている。これが屋根代わりとなり、日よけとなる。砂場はブルーシートが敷かれていて、砂場と認識できなくなっていた。空を見上げるとそこはそれはどこまでも広がっていて、建物に囲まれていたはずなのに、そこだけなぜか吹き抜けで、空を見渡すことが出来た。ここには空が広がっていたのだ。そんなことはすっかりと忘れ去られていたが、東京の空はまだ存在していたのだ。まだそこにあったのだ。こんなにも何もかもがある場所では空が失われていたし、風は隙間を這うようにその威力を増していった。雨も足をつける場所を彷徨い、いつまでも夜が来ることはなかった。それなのにこの空はなんだろう。ここに空があったのだから、何もかもが失われていくと息を巻いていた人々はさぞかし腰を抜かしただろう。吹き抜けを見つけることだ。どれだけアスファルトに覆われようとその隙間からは草木が、その下にある大地は未だに生き続けている。呼吸を続けているのだ。人々はそのことにも目を向けようとはしない。死んでしまったというのだ。自然は死んだ。亡くなった。消え去ってしまったと口を合わせる。しかし、その間も自然の、大地の呼吸、その生命が滅びることはない。先に滅びるのは人なのか、自然なのかなんてことを比較することもない。どちらも生き延びればいい。ただどうも今は殺すことばかりで、人を殺さなければ殺しと言わないといった風潮に果たして子供らは納得するのだろうか。人々は殺しを今も、この瞬間も継続しているのである。忘れるなと言っているのだ。忘れてはいけないということだ。嘘をついてはいけないということだ。隠蔽が繰り返されるのは、人々の作った恐怖であるか、その人の鈍感さであるのだが、だが果たしてそれが嘘であるだとかそんなことを誰が決めつけることが出来るのだろうか。その発言、言語は一過性のものであり、それを信じるも信じないも人々の自由なのである。最大の抵抗はお金を払わないことであり、全員がそれを止めることが出来るのなら、何もかもの機関はストップし、それでもあくせく動き回る人間もまた存在していることも事実であるが、そのストップしていると感じられる人々は増えていくのだろう。それなのに、納得もしないまま代償を支払い続けるのだ。弱者は排除されるのだという。弱者とは何か。本当に排除されているのは強者であると、弱者と思い込んでいる人々は知らない。たかが人に排除されたところで人は滅びない。目を向けるべきところが違うのであるし、自分が誰よりも正しいなんて、どうしてそんな傲慢なことが言えるのだろうか。その言葉がどこから出ているか、生まれているかの方がよほど重要であり、演説がうまく話せるかどうかが問題なのではない。上手い下手の判別ほど無駄な時間を過ごすことはない。批評をする、粗探しをするといった人々は結局のところ、身が滅びてもきっと粗を探してああでもない、こうでもないと言い続けているのだろう。もはや口癖なのである。思ってもないのに声として生まれるのだ。それは声ですらない。悲鳴である。悲痛な鳴き声である。幼児たちの、あの頃の、あの頃の悲鳴を今も蓄えて、それはいつまでも貯蓄されていくのだ。そんなものまで溜め込んで貯蓄し、一体この限られた時間で何をしにきたというのだろうか。いつまでも嘆くために生きているのだろうか。かといってそれを嘆きと片付けることが果たして正義であるのだろうか。正義とは、正しさとは何を指しているのか。人々にとって正義とは思想家であることであり、パフォーマーであることだった。堂々としている、ただそれだけで十分であったのだ。それすらも超えて、ただ彼は日々の日記を書き続けるのである。これは記録に過ぎないが、長編小説でもある。どこまでも続く、死後も続く小説であるのだから、終わることなどないのだろう。終わらせる気もなければ、何もかもがその日記の一部であり、今この瞑想状態で入り込んで来る、油絵の香り、置かれたギター、男の叫び。どこか篭りながらも、それでいてその優しさのある叫び、発狂こそ、その音楽こそ太陽と共に流れ出すべきなのだが、いつまでも流れて来るのは機械音だけであり、それが彼をいつまでも憂鬱にさせる原因にもなりかねなかったのだ。

 

麻痺

 混乱を定着させるだけでいい。ただそれを文字として紙上に定着させるのである。それだけが重要なのである。流れ込んで来る音楽を書いている。声楽、ピアノ、マンドリン、ギター、コントラバス、ホルン、チェロ、オーボエクラリネットティンパニー、シンバルとトライアングル。土から発掘されたのは太鼓の一種のようだった。打楽器だった。何もかもが打楽器であり、彼らもまた打楽器自体だった。足音、手拍子、お尻と椅子がぶつかり合う些細な音すらも、音楽として成り立たせていた。指先はすっかり冷えていたし、腰、首ももう限界だった。これは疲労なのだろうか。指はなんとか動いているが、指にも筋肉が存在。そのことを忘却し続けているのが日常であり、それでも尚その手先は動き続けるのである。これは医師として動いている。診察であるが、臨床状態ではない。そこから逃げ出さなくてはいけない。診察ではないのである。全裸なのだ。全裸による暴動、それが男の使命であった。無言で、ただその皮膚を蘇らせることだけに尽力をしたのである。彼らの皮膚は衰退していたのだから、彼はその皮膚を呼び覚ます、すなわち表面に着込んだその偽りの皮膚を引き裂き、本来ある皮膚の魂を呼び覚ますことにあったのだ。そのことを変態であるだとか、気が狂ったであるだとか、そんな簡単な言葉で片付けてはいけない。それは口にした張本人にそのまま返って来るからであり、男からすればその服をきている状態こそが変態であり、気が狂っている状態なのである。そのことにも気づかずにあたかも鎮静させる能力があるように勘違いをしているようだが、果たしてそれは鎮静と言えるのだろうか。どちらかといえば麻痺に近い。そうだ、今日もまた麻痺が横行しているのだ。麻痺したもの同士が会話したところで麻痺しているとは感じないであろう。どちらが麻痺をしているかということだ。どちらが変態し、どちらが気が狂っているかということだ。そんなことの判断を麻痺しているもの同士がしたところで解決には至らないのだった。

 

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朝方に少しずつ移行しようと試み中。

ふと、フンデルトヴァッサー先生の作品集を見たら良い。

 

以前よりもお話ができるようになったそんな気持ちだ。

 

もっともっとやらねば。

12月からの作品帳を作った。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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