創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171228

香り

 またまったく同じように、以前と同様にそれらを感じ取ることは大変難しいのだろう。もしかしたらもうそれらを感じ取ることは出来ないのかもしれない。それらとは多分あの安堵感であるとか、触れた空気について改めて味わうと言った、あの肌で触れ合ったことなのかもしれない。もう確かに変わってしまったのだ。服には少し匂いが残っているのだろうか。タンスに仕舞われていた、あの服の香りときたら、もうすっかりしまいこまれていた匂いに変態していた。しかし、本当の香りというものを知らないのかもしれない。私はこの家の香りを知らない。四六時中共に過ごしていただろうに。それなのに思い出すことができないし、触れることも、出会うことも出来ていないのかもしれないのだが、それでも一瞬、ほんの一瞬だがもしかしたら触れていたのかもしれない。それも今となっては分からなかった。まったく認知していないようにも思えたし、出会ったところでどうだというのだろう。少し埃っぽかった。あまりにも慣れ過ぎてしまっていたのかもしれない。その埃っぽさが日常あるなら、体はきっといずれ悲鳴をあげただろうし、結局そうでなかったとしても悲鳴をあげているのだろう。あまり変わらないことだ。どちらも変わらなかった。

 

芸術家

 もう数時間後のことを考えるのだろう。下手したら明日のことだとか、一ヶ月後、数年後のことまで心配を寄せていた。それどころか過去のことまで。「確かに私たちは生まれた時から。」Kは言った。「確かに私たちは生まれた時から芸術家であるのだと思います。しかし、それに条件があるのだとしたら、本人がそれを望むかどうかであり、本人がそれらのことを必要と考えているかどうかです。しかし、受取手次第でもあります。受取手がそう感じているなら、彼らが芸術家であると感じているのなら、もしかしたら彼らは芸術家なのかもしれません。どうしてこうも皆が芸術家だとか、生まれた時からそうだとかそんなことを述べる必要があったのでしょうか。忘れていたからでしょうか?それでも多くはそれを望んでいないのかもしれないし、とはいえ私たちもまたそれらを望んでいるとは限らないということです。そうならざるを得ない状況でなければそう言い出すことはないのかもしれない。こんなこと話したところで何になるのかは知りません。だったら口を閉ざすべきですが、そうもいかないのが現状であり、それを強要されるのなら私はきっと黙ってはいられなくなってしまうのでしょう。きっとそれらはそういう規律に対しての、全体に対しての問題提起なのかもしれません。しかし日本的な、その日本文化がもしそういうった規律を大切にすることであるのだとしたら、それは大変浅はかなのかもしれないのだが、それは芸術的であるのだろうか。もし書家であるのだとして、ではその瞬間筆を捨て、紙を破り、墨を手で擦り付け、撒き散らす。ドリッピング。果たしてそうなった時それは書道であるのだろうか。限りなく絵画に近いのではないだろうか。では、筆で書かれたその書が芸術でないかと言われれば、たとえ奔放でなかったとしても、何かその人自身が現れているのであれば、それは芸術であったようにも思えるのだが。」

 

私と吾輩

 そこに喜びはあったのか。発見は。試したか。衝動を試したか。行動に移したか。そのキャンパスには何が浮かび上がったか。その瞬間に何があったか。その一瞬に得た情報は一体どれほどのものだったのだろう。その状態に入り込むことだ。その行動自体になりすますのだ。思考自体になりすまし、溶け込むことだ、そして定着させることだ。そこにあるのは生み出した言語であるし、自らが新たな言語、文化、文学を生み出し続ける。自らの世界を、自らが生み出すことだ。創造主であるわけではない。それよりも穏やかだ。破壊的でありながら創造的であり、行ったり来たり。統治されている何もからの解放であり、個体であり、多面体。多様体。変化し続ける。溶けて、流れて、生まれて、落ちて、舞って、跳ねた。あの水たまりが跳ねた。土の中で跳ねた。泳いだ。ぶらぶらと揺れた。大きく、不規則な振り子、まったくの一定だったのだろうか?何かがズレ始めた。修正はしない。そのまま追いかけるのだ。時に追い越すだろう。やつらをだ。耳をかいている。後ろ足で器用に、連続して、カッカッカッカッカ。キツツキの運動。また寝る。事が終えたら眠る。単純なことだった。奔放だった。私は猫だった。吾輩ではない。あれとは違う。私のことだ。吾輩の気持ちもわからなくもなかった。ああ、神経衰弱。トランプのゲームだった。あの振る舞いはゲームだったのだろうか。何もない。あのゲームに答えはない。勝敗もあってないようなものだ。大した意味を持たない。追いかけている。

 

 知っていることを知ることだ。勉強ではない。どうして私は知っているのだろう?やったこともないことなのに体は自然とあちらの方向へと動き始める。そして誰かがそのことについて、もう名前をつけているのだが、ああそれはあなただったのですね、きっとあなたではなく、また誰かがつけたのでしょうか。それは引用だったのだろうか。新しい言語を生み出すとはそうではなく、まったく別次元のあり合わせによるブリコラージュ。現次元の寄せ集めは結局現次元での移動に過ぎず、必要なのは別次元から手繰り寄せる、そして引力によりまた戻ってくる。現実が引き戻すのだ。その間で揺れ続けるのであり、身を寄せ合い続けるのだ。そういう意味で私たちは波なのだが、顕在と潜在の行き来であり、どちらにも飛び、どちらかが生きればどちらかが死んでいるのかもしれない。それでも同時思考を続けるのであり、動きながら立ち止まり続けている。どちらか一方に立ち止まろうとする。相変わらず、空は蒼澄んでいるのだが電車はもう動き出していた。もうすぐ白みを帯びてくるのだろう。そしてまた追いかけるのだ。目のやり場に困りはてて、目を背けようとするのだろうが、それにしてもなぜ太陽はあんなに力強いのだろうか。照らされることがそんなに理想的なのだろうか。浴びることがそんなに喜びであるのだろうか。そうであるのだとしたら確かにそうだが、この生い茂った蒼も悪くないだろうに。

 

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時間で現れる世界によってきっと描かれることも変わるのだと思いました。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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