創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20180106

生ぬるい風

 生ぬるい風が木々を揺らしていた。葉が無造作に揺れ、その振動は間も無く彼をつたう。身体中をなんと無造作にまとわりつくこの光景を、彼は見聞きしながら観察する。絶えず話し声が聞こえる。口から出る言葉が宙を舞って、空で弾けて分裂した。それらの分裂したその言葉に内包された、形象し難いあのおどろおどろした微粒子たちは行き場を失って彷徨っている。彼もそのうちの一人であったが、しかし観察する立場でもあった。あの中に紛れ込んでいることを自覚しながら、まったく別の存在として観察している風を装うのである。彼の中にはそういった自己矛盾が多々存在し、その振れ幅のなかで揺れる。風に揺られる度に、右へ左へ。地面に向かって叩きつけられたかと思えば、突如反転。転調。移動したわけではない。瞬間と瞬間。その隙間を見出すことは出来ない。いずれかが生き、いずれかが死んだ。ただそのリズムで時は過ぎ去って行く。妙に青い空気がふらふらとしている。トレイを持って、着席。ここはカフェのような場所なのかもしれなかった。席を求めて彷徨うのは様々な色彩だったのかもしれなかった。白とか赤とか、そして黒とかグレーだとかそういう色だ。レンズ越しに眺める世界は少し見やすかったのだろうか?逆に見えなくなってしまったのは彼自身のことなのかもしれない。しかし、あれもこれもが自分自身であると彼は錯覚し、そう信じてやまない。あれもこれも自分自身だとそう考えている。彼が生み出した反応はまさに彼の反応であったし、いちいち目で追うその色彩だとか、行き場を失ったその微粒子だとかも彼自体の反応によっていつまでも体の周りをまとわりつく。男性であるとか、女性であるとか、今がどうだとか、昔がどうだとか、これからはどうするべきだとか、そんなことに惑わされてどうするのだろうか。人を煽りながら自分自身を煽ってるのだから、そんな煽りに同調してどうするのだろうか。周りを煽り、自分を煽って、一体どうしたいのだろうか。追いかけるのか?追い越されるのか?時間に追い越された気持ちを知っている?取り残された気持ちを知っている?それは案外悪くないものだった。すっかり解放されたあの時間こそ彼の居場所であったのかもしれない。

 

総じて

 「総じて」と群衆に向かって男は言った。「総じて順調だ。我々が目指すべき世界は総じて順調に、そして軽快にまもなく訪れるだろう。もう少しの辛抱だ。その日には杯が交わされる。もちろん我々と、新たな我々たちで、大きな一人になることに杯を交わすのである。我々は語りかける。我々の目の前で語りかけ続けるのだ。もっとも近くで我々に語り続けるのだ。その声は我々の鼓膜を伝って、横隔膜をどこまでも広げ、心臓を響かせ、限りなく、際限なく叫び続けるのだ。」

 

落ち着き

 おかげさまで落ち着きは取り戻したようですが、やはりまだ万全な状態ではないようです。万全なんて元々どこにあるかわかりませんがね。とにかくどんな状態でも私は描き続けます。描写します。内面を描写します。それは私ですし、あなたですからそのまま描写します。そして矛盾を感じずにはいられなくなります。自己否定をすると思います。口を開くことを嫌悪すると思います。私が語ることのできる範囲は家の中だけですし、もはや私の体の範囲のことしか語ることは許されないのかもしれません。それなのにことを大きくして、社会だとか、世界だとかそういう風に範囲を無謀に広げて行くのです。それが私が語る私の体のサイズ感だからです。私は拡張していました。伸びて、広がり、膨張、膨らんで、爆発、破裂して、そのかけらを拾い集めているのです。明日もきっとその作業をしています。響き渡る地響きはきっとその一部分です。咽喉を鳴らすのです。私は咽喉を鳴らします。そこを通らなくてはならないからです。必然的なのです。しかし肚の中では音楽がまだ鳴り響いていますから、それは通過儀礼のようなもので、私は釈然とした表情で歌います。声高らかに、体全体を震わせます。時にそれは怒号のようなものに変化します。それも含めてそれは放出という作業の一環だからです。留めておくことが困難なのです。まるで野良猫のような状態ですから、我々はのんきに陽の光の当たる場所へ、この時期は特に、向かって歩いて行くのです。

 

自覚

 「俺は自覚している。自覚しながら書いている。俺だったことを自覚しながら膨張させている。誇大妄想を繰り広げている。この言葉に意味があるのか、どこからやってきたのか、理論的かどうかなどは大した問題ではない。そんなことよりも言葉はいつまでも途切れることなく、循環を繰り返す。どさくさに紛れることもなく、純粋な塊として。俺はその塊を溶かす。時に溶かしきれずに凍え死ぬのだが、そんなことを躊躇してはいられない。否、もう感覚すらないのだ。これは閉ざしているわけではない。俺は豊富な感覚を張り巡らせた。その結果もう何も感じることはなくなったということだ。指先にほとばしる文字、上空を心地よく舞い上がる文字、大地へ還って行く文字、それらの文体があまりに自然に、自動的に、まるであの者たちの声であるかのように。そうだ、俺はウォルト・ホイットマンだった。さっきまではそうだった。今もそうかもしれない。」

 

参考文献

 参考文献にしているのではなかった。ただ入り込んでいるだけだ。私たちはただ演じ続けているのだ。それらの書物に書かれた関係を結び、それらと一体となっているだけなのだ。だから私たちは文字を追いかけている。彼らの言語に身を委ね、そこで踊るのだ。今その言語を持っている者はいるか?自らその言語を発行している勇気ある者はいるか?これは文章を成り立たすための文章ではない。私たちの叫びであり、舞いだった。芸能民としての誇りを持っていたからである。下衆な群衆に向かって行うそれではない。もっとも高貴な仕事であったのだ。ああ、笑いは今日も絶えず起こるでしょう。誰かを傷つけるという前提のもとで。彼は一番に傷、痛みを恐れていました。しかし次第にそれすらも感じないでしょう。もう彼の元に入り込む言葉は彼自身が生み出した言葉でしかなく、それ以外が入り込む余地はまるでなかったのだから。追いかけたって無駄だったんだ。

 

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昨夜は割と眠れた気がする。

特に夜になると咳と鼻水が出始める。

 

なんだろう。

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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