創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20180116

我が物顔

 「あいつはどんなものでも我が物顔で僕の大切なものを奪い去っていく。僕がどれだけ大切にしていようが、例えばそれに名前を書こうがきっとそんなことは御構い無しなんだ。僕は自分の物として大切に使おうと思っていたのに、あいつはそれを平気で持ち出したり、傷つけたりする。だから僕は行き場を失って、僕は自分を抑え込み始める。そうすることで、我慢することでその場を凌ぐやり方しか知らないからなんだ。しかしそうやってもう、我慢するのも嫌で嫌で仕方がないんだ。だって僕が大切にしている何もかもを我が物顔で持っていくし、気づけば平気で自分の物みたいに扱い始めてしまう。そうやってあいつだけが目立つことばかりして、僕は大人しくしているのに、僕はいい子にしているのにあいつばかりが許されて、あいつばかりが目立つことで褒められるんだから、じゃあ僕は一体何処に行けばいいのだろう。僕は何処に行けばいいのですか。こんなこともきっと僕の所有欲の問題なのであろうし、どうしてそんな何もかもが自分のものだと我が物顔で言えるのか。そもそも僕自身が。僕自身がどうしてこれは自分の物だと、そんなことを堂々と言うことが出来るのかが僕にはよく分からなくなってきている。きっとあいつにはそんな分別はない。いいと思ったものはいいのだ。それは普通のことだ。だからあいつは自分の中に取り入れるのだろうし、それは自然な行為であるはずなのに、僕は僕自身の抑圧された経験を取り出してそれは良くないことだと批判し始めている。そうやってあいつを批判しながら、僕自身の言い始めたことに矛盾を感じているのです。筋の通らない話をして、まったくこいつは子供じみたことをいつまでも言っていると、自らをそうやって批判しているのです。」

 

収まれば

 収まればそれでいいのでしょう。どれだけ取り乱そうが、収集がつかない状態にまでなろうが、結局行くところまで行くと戻ってこれるということは知っているのだからそれでいいのでしょう。慌てる必要もありませんし、落ち着こうとする必要もありません。どちらも並行して行われれば良いのでしょう。だからそれ以上のことをもう捜索することはなく、ただ成り行きを、通り過ぎて行くことを待つしかないのでしょう。結局、いまそれらの言葉が浮かび上がっているから書き記しているだけであるし、それ以上の意味は何もないのでしょう。ただ浮かび上がった。ただ飛んだ、跳ねた。だから書いた。記した。刻みつけた。そうやって伝えようとしているのでしょう。伝えようとしながら、その意思を疑うのでしょう。疑っているのだからそれはそれでいい。もう終わりにしなさい。あの抑圧だとか、恐怖から身につけた振る舞いだとか、そういうもう不要になったものは終わりにしなさい。もう何もかもを終わりにして、自ら生み出すことだけに集中しなさい。それ以外に注力する必要があったのでしょうか?どうしてそんなことに夢中になる必要があったのでしょうか?あなたはあなたのことに夢中になるだけで良いのです。誰が主役だろうが、そうでなかろうが関係のないことです。自らの力を高めることだけに注力することです。自らの精神に、自らの内面に注力しなさい。そうやって出会いなさい。そうしてあなた自身が大切な物をとことん大切にしなさい。それは所有ではなく、あなた自身だからです。あなた自身の姿だからです。だからあなたの力を高めること、成長して行くことこそ重要なのです。そこに他人は関係ありません。あなた自身が関係あります。他人が関係あるとするならそこに何が映し出されているかだけであり、すなわちあなたはなんだかんだと言いながら、人を徹底して利用しているのです。相手を通して何もかも自分に戻すのです。そうやって利用し、自分に取り入れてしまうのです。

 

鳥かご

 鳥かごの中でぼやいている。鳥ではなく私たちがだった。鳥かごの中で嘆いている。鳥ではなく私たちがだった。鳥かごの世界は反転している。もう既に鳥は自由なのだ。それを眺めている人間こそが不自由だった。鳥かごの中で鳥は自由に過ごしていた。そして鳥かごという枠すらも感じていなかった。だから飛んで行った。あの時、母が逃したインコもそうだった。ただ飛び立っていった。飼われる気がなかったのだ。だから自ら飛び出していったのだ。私はその姿を目にすることもなく、私が鳥かごに戻ると彼女らはもう飛び立っていた。そうだ。私が自分で鳥かごの中に戻っているのだ。自ら進んで、無思考に、何ら考えることもなく、当たり前のこととして戻って行くのだ。それなのに、それなのにまた鳥かごに対して不満を漏らす。彼女はもう飛び立っていたのに。

 

筋合い

 「あいつのことをとやかく言う筋合いはないのだろう。これも全て僕自身の自信のなさからきているのだから、それを認めるしかないのだろう。かといって否定的に捉えないでほしい。これは前向きな見解だし、だから目の前のことに向き合うしかないのであり、きっと僕はこれからもっと自由に演奏しているだろう。主役だとかそうでないだとか何を言っているのだろうか。僕はもう今この瞬間に主役であるし、例えばそれらがどれだけ入り組んで、分からない状態になろうが、そこに居合わせた全ての人が主役であるのだろう。それは主役というよりは主体的にその場に皆が、自然に関わっていると言える。だからそれでいいではないか。そこに溶け込めないのは、自分自身の欲求不満でしかないのだ。要は自信がないだとか、認められたいだとか、そういう感情であるのかもしれない。僕は未だに恐れているのだ。自らが立ち振る舞えない、上手に関われない、そんな状況の中でどうやって関わりを持てばいいのかが未だに分からないのである。そんな風に劣等感を感じているのに、それだから、それも含めて、僕は自分を出せないことに絶望し、一人で悲しみ、後悔し、育ちが悪いだとか、環境が悪かっただとか、この体が悪いだとか、他人のせい、自分の器官のせいに仕立て上げるのだから、もう終わりにしてしまえばいい。そんな概念は存在していなかった。築き上げてしまったのは僕自身だ。それが植え付けられたなどと言ってはいけない。ただ取り払えない僕自身の不甲斐なさに嘆いているのだから。」

 

f:id:mizokoji:20180116140708j:plain

相手が優越感を抱いているのではなく、

自分自身が劣等感を抱いているだけなのだ。

 

--------------------------------------------------------

溝井孝司(Koji Mizoi)

連絡先:mizokoji@gmail.com

Twitterhttps://twitter.com/kojimizoi

Instagramhttps://www.instagram.com/kojimizoi/

--------------------------------------------------------

 

広告を非表示にする