創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20180118

あの頃

 「あなたがあの頃。」Kが言った。「あなたがあの頃に手放した好きだったこと。それらの理由はそれが嫌いになったからではありませんでした。むしろ体質の方でした。その組織のおける、体質と肌が合わなかったのかもしれません。個人よりも集団を重んじる風習が肌に合っていなかったのかもしれません。それらを自己犠牲と感じていたのかもしれません。それが自分を苦しめていると感じていたのかもしれません。それらは自分自身の感受性の問題であると断定し始めていたのかもしれません。あなたは結果だとか、成果だとか、数字とかが最優先の世界に早くから身を置きすぎたのかもしれません。それによってあなたが失ったものを今拾い集めているのでしょうか。しかしそれらが無駄だったとは思いませんでした。結局、今もあの頃とやってることはなんら変わりないからです。ただ姿形を変えて、それらは継続されます。あくまで自らの内面世界を表すための方法にすぎません。それらの世界に没頭するための行動の連続でしかありません。あなたは追いかけている。とにかく何かも分からず追いかけいる。何度も、何度もそのことを述べる。言葉が通っていく。過去を追いかけている。それとも揺れ動いている。そうして揺れ戻る。どちらか一方で存在する。点と点を行き来している。」

 

 とにかく線を引きたかったからそうしました。鉛筆だけでは物足りなかったので色をつけて沢山の線を引きました。引きたかったからです。線と線が混じり合う瞬間だけに集中したかったからです。線と線が混じり合い、困惑していく様子を眺めていました。しかし彼らは落ち着いていました。取り乱していたのは私の方でした。彼らは目の前に現れては定着していく。色だけは取り乱している。私は穏やかでいれただろうか。その瞬間にも穏やかにそこに存在することが出来ただろうか。何を望んでいるのだろうか。だからとにかく望み通り線を引き続けた。何本も、何本も色鉛筆を持ってただ紙の上に線を描き殴っていた。そうやって落ち着かせた。紙に色を乗せることで私自身を落ち着かせた。そうしてまた色を重ねる。ただ、手に取った水色だった。油絵の具だった。薄く伸ばした。絵の具から透け出た線を眺めた。また色を重ねた。黄色やオレンジだった。月は青くなった。丸い月が青くなった。そこにまた線を引いた。ただ赴くままにやった。その記憶を書いている。その記憶を忘れないようにしている。ただ追跡している。追いかけている。また追いかけている。私はそこに居る。私はそこに居る。どうしてそこに居るのか。いつからそこに居たのだろうか。存在を確認するためにそこに居たのだろうか。また意味を考えるのだろうか。理由を見つけようとするのだろうか。好きだから好き。それだけで構わなかった。何かが出てくるのだろうと思っている。こうしていればまた何か今は停滞してるのかもしれないが、きっとまた何か出てくると考えている。それに今も出てきている。停滞してはいない。とにかく書き出した。そのページを一枚一枚捲った。読み上げた。音読した。発表した。手を上げて自分から教室の中で堂々と音読した。読むことが好きだったからだ。声に出すことが好きだったのだと思います。それ以外に何か理由があったのだろうか?とにかく進む進む。あの教室に進む。階段を登って、4年2組の教室に進む。自分の教室かどうかは覚えていない。しかし思い浮かんだから4年2組の教室へと進む。席に座って青い道具箱の中身を確認する。時折整理する。自分の名前が書いてあることに安心する。丁寧に使う。物を大事にする。誰かに貸したいとは思わない。人に触れて欲しくない。自分のものだからだ。大切にしたいからだ。これは所有欲?分け合う気持ちがありません。私には分け合いたい、協働したいという気持ちがありませんでした。どうして私の家族が買ってくれたものを誰かに貸さなくてはいけないのでしょうか。私は大切にしたかったのです。お金を出して買ってもらったからです。一生懸命に働いたお金で買ってもらったからです。だから傷つけられたくなかったし、大切にしたかったのです。それが4年2組にあった私の気持ちでした。それらの気持ちをどうして放っておくことが出来るのでしょうか。どうしてないものにすることが出来るのでしょうか。私の大切な道具を、名前まで書いて私のものだと分かるようにしたものをどうして、どうして見知らぬ奴らなんかに傷つけられなくてはいけないのでしょうか。これは私の異常なこだわりなのでしょうか。私は大切にしたかったのです。私が大切にしたかったのです。それらの愛情が重たすぎたのでしょうか。果たしてそれらは愛情だったのでしょうか。私があの頃物に対して抱いていた感情は果たして正常だったのでしょうか。私は背景を感じ取っていました。物にある背景のことです。だからそれらは大切にされるべき存在だったのです。家族が買ってくれたものだったからです。親が買ってくれたものだったからです。

 

私の物

 私の持っているものは私の物ではありませんでした。もともと誰かの物でした。私が物に対して抱く感情は一体なんなのでしょうか。私はそれなのに我が物顏で、何もかも私のものであるかのように、私の領域であるかのように図々しく私の居場所を強要します。私の居場所はここだと、ここが私の領域だと根拠もなく主張します。それらは私の絶対的な所有物でないにも関わらず、私は譲ろうともしません。絶対に譲ることはできないとそういうことを述べるのです。どうして所有せねばならないのでしょうか。一体、私の持っている物がいつから私のものと決定づけられたのか。貰ったもの、受け取ったもの、契約書は交わしていません。好意で貰ったものです。例えばギターだとか、ギターケースだとかもそうです。絵の具も買って貰ったものかもしれません。衣服に関してもほとんどが貰い物です。買ったものもあります。買ったのですが、確かにお金を払ったのだと思います。しかしそれらは元々は誰かの手によって作られているわけであり、私が作ったものではありませんでした。私が例えば布を織ったとして、それは確かに私が作ったものではあるのかもしれませんが、その素材だとか糸だとかそれらは私が生み出したものではなく、あくまで自然物であり、そういう物で作っている。それなのにこれは私が作ったものだと何食わぬ顔で主張する。私の所有欲はなぜ存在するのだろうか。一体どうして、いつから、そんなものを持つようになったのだろうか。それらはどれくらい必要なのだろうか、それとも必要ないのであろうか。

 

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何が自分の物なのだろうか。

そんな物ないんじゃないだろうか。

 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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