創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20180226

 夢の中で「繊細な人の気持ちがわかるのか?」と叫んでいた。今はもう亡くなったおばあちゃんに対してだった。驚いたような表情をしていたが、感情をあらわにした僕を受け入れてくれているようなそんな気がした。怒鳴り散らした後に、なぜか実家の車の匂いがした。映像ではなく嗅覚の記憶自体が蘇る。目を覚ますがここは実家でもないし、車の中でもなかった。ただ確かに僕は実家にある車の匂いを嗅いでいた。少し煙草の匂いが染み付いた車内の微粒子を吸い込んだ。

 夢と現実の境界が曖昧になりつつある。起きてから、織った布を縮絨し、外に干してあげた。そのまま布団の中で横になった。どうも気力が湧いてこない。そのまま眠り、それでも機械的に体を起こし、機械的に動き始める。たとえ眠りにつき、何もかも忘却していたとしても、目がさめた瞬間から身体は悲鳴をあげる。今はまだ小さな悲鳴である。どちらにせよなのである。何もせずにぼーっとしていてしても、何かをするために身体を動かすことが億劫であろうと、どちらにせよ苦しみはついて回る。僕は自らが抱えている苦しみのようなものを隠蔽するために新聞紙を機械的に床に広げ、画材を用意し、紙だとかキャンパスを置き、その間にコーヒーを入れて、またぼーっとし始める。それでもちょっとした衝動があることは確認できる。何かしらの色が気になるとか、何かしらの画材が気になるとか。だからそんな小さなことから運動を始める。その連続が続き、紙自体にのめり込んでいる。ただし自由だし不自由である。

 苦しみと書いているが、それは果たして存在しているのかはわからない。ないと感じている。"今は"だ。ただ、確かになんらかの反応が胸のあたりで起こったことを確認する。布団に横になりながら。そしてため息をついて、体から抜けていくのを待つ。頑張って動こうとしても仕方がないというのが最近の見解。それでも毎日ルーチンワークが義務付けられている。僕自身からの発注により。

 以前はこのブログに毎日文章を書くようにしていたのだが、一旦やめたのが約一ヶ月ほど前。その時から「Blue」というタイトルをつけ、毎日書くようにしている。昨日ふとタイトルが「夢の現実」という名前に変わったような気がした。殴り書きの文章が画面上に現れて、ふらふらと席に着き並んでいく。意味だとか構成だとか、何もない。正確な登場人物もない。たまに名前のある人物が登場したりもするし、いなくなったりする。なんなのか分からないが書いている。よくわからないけど文字は書ける。自動執筆的。小説でもないし、物語でもない。文字だけが並んでいる。だがとりあえず、200枚分書いてみようと思っている。残り10枚。なんとなくであるが僕は死ぬまでの間何かしらを作り続けるのだと思っている。これもまたその一部。それら全てが長編小説のようなものかもしれない。

 

 時折読んでいる本の模写する。僕にとっては身体のどこかしらが動いていることが重要であるのだと思っている。自分から言葉が出てこないときでもこれなら書けるし、指先は動く。運動を止めてはいけないのだと感じている。

 一致する、とはどういう意味だろうか?わたしは、今までの生涯の中で、わたし自身に出来る限り近づこうと(わたし自身をよく観察したいと思ったので)試みてきた。だが、一致してしまうことはないように、行きっ放しになってしまうことはないように、自分をそれに与えてしまうことはないようにと気をつけてきた。
 私は、ある程度の余裕を、安全を保障する余裕を、残しておきたいと思ったのだ。
 わたし自身であるために、わたしの方から贈り物をしなければならないというのは、言い過ぎのように思われるかもしれない。だが、それは本当なのだ。偽の自己愛を持つ者は、わたしと共に歩むことも、わたしに従うこともないだろう。そして、わたしはひとりぼっちではない。
 わたしのような人間が他にも沢山いるのだ。彼らは贈り物をしようとしない。
 信仰を持つということは、神を信じるということではない。それどころか、神を信じない人々をも信じるということだ。それは、人が、誰かに対して、その人間に対して、際限もなく贈り物をしたい、何としてでもそうしたいという気持ちを持ってしまう、ということなのだ。同様に、愛は、必ずしも申し分なく立派な女性の存在を願うというようなものではない。愛とは、自分自身という贈り物、自分自身を贈り物にしたいという欲求、なのだ。そして最も怠惰な人間でも、そうしたいという耐え難い欲求を持つことができる。自己愛でさえも、人が自分自身にこの自分自身を贈り物にしたいと思う時にしか、成立しえない。そしてまた奇妙なことだが、そのためには、信じなければ(自分自身を信じなければ)ならないのである。
ー「みじめな奇蹟」アンリ・ミショー

  僕は僕自身を創造、あるいは出産しているようにも思えていて、贈与したいという欲求がある。自分自身に対して。特に自分の作った歌を歌うのは格別なものがあると思っている。それらが僕自身から溢れたとき、それが人の手に渡る時なのかもしれない。それが徐々に起こり始めているのは嬉しいことだ。しかし僕は満たされていない、欲求不満であると感じているが、一方で大変満足に満たされていて、すっかり溢れかえっている状態でもある。どちらが自分なのか分からない。どちらかが生きる時、どちらかが死んでいる。その入れ替わりが頻繁に起こっているのかな。

 

 

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皆既月食の日の写真。

 そういえば昨日、女性のが好きと書いていたけど人によるよね。男性でも女性でも好きな人は好きだし苦手な人は苦手。子供も然り大人も然り。ただ男性としての振る舞いを強要されるのがどうしても苦手でストレスなのだと感じている。そんな僕がみーさんと一緒にいるのは本当に奇跡的なのかもしれない。僕はみーさんと結婚する前に「わたし、大黒柱にはなれません」と泣きついたことがあったが、それに対するみーさんの返答は「俺たちに性はねえ」でした。

 

おやすみなさい。 

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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